、このほど馬鹿になって出て来たという。なるほどボンヤリして歩いて来た。ひとつ調戯《からか》ってやろう、あんなのを調戯わなければ、調戯うのはないという。
 そこで、八人の侍が諜《しめ》し合わせているとも知らず、花道から岩見重太郎が出て来る。重太郎が出ると見物が騒ぎ出して静まらない。海老蔵、海老蔵の声が雷のようだ。
 いかにも重太郎、武士の風こそしているが、ボンヤリして馬鹿みたような顔をしながら歩いて来る。舞台の程よいところへ来ると、以前の若侍が出て調戯《からか》う。そうして結局酒を飲ませるといって附近の料理屋の二階へ連れ込む。
 同じ幕の二場。
 桝屋久兵衛という立派な料理屋の二階。八人の若侍が薄馬鹿の重太郎を囲んでしきりに嘲弄《ちょうろう》しながら、大杯で酒をすすめる。それを重太郎がひきうけて八杯まで呑む。そのうち、二人ばかり重太郎に組みついて来ると、重太郎がそれを取って投げる――つづいて組みついたり――打ってかかったりするのを、残らず二階から下へ投げ落してしまう――それから舞台が半廻しになって、重太郎は海岸の淋しい松原をブラブラ帰りながら、自分は三鬼山《みきざん》の奥に三年|籠《こも》り、一人の老翁のために剣法を授かったが、その老翁が喬木《きょうぼく》は風に嫉《ねた》まれるから、決してその術を現わさぬよう、平常《ふだん》は馬鹿を装っているがいいといわれたから、その通りにしている、親兄弟にも馬鹿になって来たと思われているが、身に降りかかる火の子は払わなければならぬ、無益な腕立てをして残念千万、というような独白《せりふ》がある。
 そうして松原へかかると、人の気配《けはい》がするのでキッと踏み止まって八方に眼を配る。この時遅し、前後から白刃を抜きつれて斬ってかかる者がある。
 重太郎、心得てヒラリと体《たい》をかわし、たちまち一人の白刃を奪って、他の一人を斬って捨てる。それをきっかけに、松原の中から抜きつれたのが無数に飛び出して、重太郎に斬ってかかる。
 そこで大乱闘が始まる。
 重太郎、前後左右にかわして、体を飛び違えては四角八面に斬り散らす。いずれもただの一刀で息の根を止めてしまうが、敵は多勢――
 見物の喝采《かっさい》は沸くが如く、なかには鉢巻をして舞台へ躍《おど》り出そうとする者もある。
 またやられた。あれで十八人目だと丹念に数えている者もある。
 幕があ
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