神を妨げるものはないと、いつもそれを感じながら、旅から旅を歩いているのであります。
「妖童般若」の図を描き上げて、こうして追い立てられるように出立したのは、自個《じこ》の作物そのものに、また愛惜を感じてはならないと思ったからでしょう。
白雲は愛惜が自由放浪を妨げるということをよく知っている。それは自分たちの生涯は自由放浪のほかには立場がないと信じているためらしい。
昔の出家は一所不住といって、同じところへは二度と休むことさえもしなかったそうだが、自分のはそれとは違いこそすれ、愛惜があっては心を自由の境に遊ばせることができない。だから、つとめて愛惜から逃れんがために旅から旅を歩いているところは、一所不住の姿に似ている。
それほどならば、最初から妻子を持たなければいいではないか。扶養の義務がある妻子を持った以上は、浮世の義理に繋がれて行くの義務があるべきはず。妻子を持って同時に自由放浪に憧《あこが》れるのは、自分はそれでもよかろうが、妻子そのものが堪るまい。白雲は、そればかりは何とも申しわけをすることができない。申しわけが立たずに両頭を御《ぎょ》して行くことは、白雲としてはかなり苦しいことでしょう。白雲もやっぱり天上の雲ではない、地上の人間だ。
幸いにして、このたびの船路には、お角の時のような災難もなく、駒井と乗合わせた時のような無頼漢もなく、海も空の如く澄み、且つ穏かな船路でありました。
久しぶりで海に出た清澄の茂太郎、行住座臥《ぎょうじゅうざが》はなさぬ所の般若の面を脇にかかえて、甲板の上を初めはダクを打って歩いていたが、その足がようやく興に乗じて急になる時分に、帆柱の下で馬鹿囃子《ばかばやし》が湧き上りました。
これは多分、木更津方面の若い衆が、江戸近在へ囃子を習いに来ての帰りか、そうでなければ江戸近在の囃子連が房総方面へ頼まれて行く途中でしょう。
太鼓は抜きですが、笛とすりがねの音は海風に響いて、いとど陽気な気分を浮き立たせ、船に乗る者、さながら花車屋台《だしやたい》の上にあるような心持になりました。
「おや、ごらんなさい、あの子は踊っているよ」
見れば艫《とも》の方から、左腕には般若《はんにゃ》の面を抱え、右の手を翳《かざ》して足拍子おもしろく踊りながらこちらへ来るのは、清澄の茂太郎であります。
吾等笛吹けども踊らず……と誰がいう。
船の
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