ばかりですから、空気の緊張を欠くこと夥しい。妙な三悚《さんすく》みが出来上って、この室内のてれ[#「てれ」に傍点]加減がどこで落着くか際限なく見えた時、気を利《き》かしたつもりか、お絹の持って来て畳の上へ置いた手燭の蝋燭《ろうそく》がフッと消えました。これは蝋燭が特に気を利かして、この場のてれ[#「てれ」に傍点]加減を救ったというわけでもなく、風が吹き込んで吹き消したのでもなく、慾に目の眩《くら》んだ人間のために顧みられなかったものだから、以前は、相当に寿命のあった蝋燭《ろうそく》も、この際あえなき最期《さいご》を遂げたのであります。
「七兵衛さん、悪い気でしたのじゃないから堪忍しておくれ、殿様の御気性で、ホンの一時の座興なんだから。元はといえば、お前があんまり、ひけら[#「ひけら」に傍点]かすから悪いのさ」
暗くなって、初めてお絹が白々しい申しわけをする。
「なあにようござんすとも、こうしてお世話になっている以上は、何事も共有といったようなものでござんすからね、御入用だけお使い下さいまし、御自由に」
先夜とは打って変った白々しい気前ぶりを見せた言い方。
暗い間のバツを利用して、お絹は神尾主膳の手を取って、この座敷を連れ出してしまいました。あとに残された七兵衛、ドッカと胡坐《あぐら》をかいて、ニタニタ笑いがやまない。
先方は見えないつもり、こちらは暗いところでよく物が見える。神尾の手を引いて、ソッと抜け出したお絹という女の物ごし、散乱した金銀に心を残して出て行く足どり――あの足どりでは、足の裏へ小判の二三枚はくっつけて出たかも知れない。悪い時に帰ったものだ。
しかし、これが縁になって、その翌日、七兵衛は表向いて神尾主膳に紹介されました。
うちあけた話になってみると、おたがいに、相当に頼母《たのも》しいところがある。頼母しいところというのは、世間並みにいえば、あんまり頼母しくないところだが、七兵衛は神尾の急を救うために、無条件で鎧櫃の中を融通する約束。今は、先夜お絹にしたような見せつけぶりでもなく、勿体《もったい》もつけず、サラリと投げ出したのは、神尾にとっても、お絹にとっても、頼母しいことこの上なし。
ところで一つ、七兵衛の方からも、交換条件が神尾に向って提出される。これはお絹の身体を抵当に、なんぞという嫌味なものではなく、七兵衛は七兵衛としての一つ
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