そこで、兵馬が、茶代をおいて立ち上る途端に、アッと面《かお》の色を変えたのは茶屋の番頭で、それは、今しも峠を上りきって、この店頭《みせさき》へ現われたのが、見覚えのある仏頂寺弥助と、丸山勇仙の二人であったからです。
 五条源治の番頭が青くなったのも無理はありません。こういうお客は、二度と店へ来ない方がよいのです。あの時は、亡者が立去ったほどに喜び、塩を撒《ま》いてその退却を禁呪《まじな》ったのに、またしても舞戻って来られたかと思うと、物凄《ものすご》いばかりであります。
「おい番頭、この間はいかいお世話になってしまったな」
「どう仕《つかまつ》りまして……」
 幸いに、今日は何も担ぎ込んでは来なかったが、これからどうなるかわからない、これから先が危ないのだ――番頭はこの客が早く出て行ってくれればいいと思いました。出て行ってしまったら、そのあとで戸を閉めてしまおうかと思いました。
「宇津木君、先刻は、君に飛んだところを見せてしまって面目がない」
 抜からぬ面《かお》の仏頂寺に対して、宇津木兵馬が、
「一足お先へ出かけました」
「さあ、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原へ行こう」
 番頭を安心させたのは、仏頂寺、丸山が店へ腰を下ろさないで、先来の客を促して、前途へ向けて出発を急ぐからであります。全く、こういうお客は、一刻も早く立去ってもらいさえすればよい。
 三人が打連れて、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原方面へ立去ったので、番頭の面に初めて生ける色が現われました。
 兵馬を中に挟《さしはさ》んで、峠の道をやや下りになる仏頂寺と丸山。
 兵馬は、ここで奇態な人間だと、少々|煙《けむ》に巻かれました。
 さいぜんの醜態は感心しないが、あの醜態を少なくとも忽《たちま》ちの間に脱却して、相当に旅装を整えて、一気に、ここまで駈けつけて来た転換の早さは、相当に感心しないわけにはゆかない。あの体《てい》では終日|耽溺《たんでき》から救わるる術《すべ》はあるまいと見えたのに。
「は、は、は、は」
 仏頂寺は声高く笑い、こんなことは朝飯前だといわぬばかりに、
「修行盛りの若い時分には……」
 吉原に流連《いつづけ》していても、朝の寒稽古にはおくれたためしがない。遊女屋の温かい蒲団《ふとん》から、道場の凍った板の間へ、未練会釈もなく身を投げ出す融通自在を自慢|面《がお》で話す。
 その時、
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