軒の本宿に、二十四軒の旅籠屋《はたごや》。紅白粉《べにおしろい》の飯盛女《めしもりおんな》に、みとれるようなあだっぽい[#「あだっぽい」に傍点]のがいる。なるほどこれでは、道中筋のお侍たちがブン流してお差控えを食うのも無理はないと、いい年をした道庵が、よけいなところへ同情をしながら歩きました。
 道庵先生は玉屋の店の縁先へ腰をかけて足を取り、洗足《すすぎ》のお湯の中へ足を浸していると、旅籠屋《はたごや》の軒場軒場の行燈《あんどん》に火が入りました。それをながめると道庵は、足を洗うことを打忘れ、
「ははあ、初雁《はつかり》もとまるや恋の軽井沢、とはこれだ、この情味には蜀山《しょくさん》も参ったげな」
 事実、江戸を出て以来の情景に、道庵がすっかり感嘆しました。
 ところが、そこへ、おあつらえ向きに遠く追分節が聞え出したものだから、道庵がまた嬉しくなりました。
「すべて歌というやつは、本場で聞かなくちゃいけねえ」
 両側に灯《ひ》をともしはじめた古駅の情調と、行き交う人の絵のようなのと、綿々たる追分節が詩興をそそるのに、道庵先生が夢心地になりました。
「あの、お連れさんをお迎えに出しましょうか」
 女からこう言われて、ハッと気がついて、
「そのこと、そのこと、急いで人を出しておくんなさい。大将、まごまごしているだろう、間違って坂本の方へでも落っこってしまわねえけりゃいいが……」
 道庵がはじめて、米友のことを思い出しました。
「ね、いいかい、人相はこれこれだよ、間違えちゃいけねえ。なあに、間違えようたって、間違えられる柄《がら》じゃねえんだが、人間が少し活溌に出来てるから、気をつけて口を利《き》いてくんなよ、腹を立たせると手におえねえ」
 そこで、米友の人品を一通り説明して聞かせましたから、宿の者は心得て、米友を迎えに出かけました。
 道庵が、そこで足を洗いにかかると、この宿の楼上で三味線の音《ね》がします。そこで道庵が、またも足を洗う手を休めてしまって、
「古風な三味線の音がするが、ありゃ何だい」
「説教浄瑠璃《せっきょうじょうるり》がはじまりました」
「説教浄瑠璃と来たね、今時はあんまり江戸では聞かれねえが……なるほど、苅萱《かるかや》か、信濃の国、親子地蔵の因縁だから、それも本場ものにはちげえねえ……」
 見るもの、聞くものに、一通りへらず口をたたかなければ納まら
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