偉さとも違いましょう、また近代のこの信濃の国の佐久間象山の偉さとも違いましょう、一茶の偉さは、英雄豪傑としての偉さではありませんよ、人間としての偉さですよ、信濃の国の名物中の名物は俳諧寺一茶ですよ……いや、信濃の国だけではありません、この点において一茶と並び立つ人は天下にありません、一茶以前に一茶無く、一茶以後に一茶なしです……」
俳諧師の言葉に熱を帯びてきました。
一方の熊狩りはどこへ行ったか姿が見えません。かれらは一頭の熊のために、一頭の熊が与うる生活の資料のために、血眼《ちまなこ》になっているから、山を眼中に置かない。
こちらは歌人――とは断定できないが――と俳諧師とは、古人を論じて来時の道を忘るるの有様です。
しかし、どうやら間違いなく二人は白骨の宿へたどりつくと、池田良斎が東道《とうどう》ぶりで、炉辺に焚火の御馳走を始めました。
ところで、この俳諧師の、俳諧寺一茶に対する執着は容易に去らない。
「古人は咳唾《がいだ》珠《たま》を成すということをいいましたが、一茶のは咳唾どころじゃありません、呼吸がみな発句《ほっく》になっているのです、怒れば怒ったものが発句であり、泣けば泣いたのが発句となり……横のものを縦にすれば、それが発句となり、縦のものを横に寝かせば、それがまた発句です。その軽妙なること俳句数百年間、僅かに似たる者だに見ずと、時代を飛び越した後人がいいましたけれども、それでも言い足りません。一茶の句は滑稽味が多いとおっしゃるのですか。それはやはりあなたも素人観《しろうとかん》の御多分に漏れません。よく一茶を惟然《いねん》や大江丸《おおえまる》に比較して、滑稽詩人の中へ素人《しろうと》が入れたがります。『おらが春』の序文を書いた四山人というのが、それでも、さすがに眼があって、これを一休、白隠と並べて見ました。それでも足りないのです。また一茶の特色を、滑稽と、軽妙と、慈愛との、三つに分けた人もあります、慈愛を加えたのが一見識でございましょう。一茶の句をすべて通覧してごらんになると、森羅万象がことごとく詠《よ》まれぬというはありません、その同情が、蚤《のみ》、虱《しらみ》、蠅《はえ》、ぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]の類《たぐい》にまで及んでいることを見ないわけにはゆきますまい。それとまた一方に、一茶を皮肉屋の親玉のように見ている人もあります。つむじ曲りの、癇癪持《かんしゃくも》ちの、ひねくれ者のように見ている人もあります。勧農の詞《ことば》なんぞを読んで、聖人の域だと感心している人もあります。しかし、それはみんな方面観で、当っているといえば、凡《すべ》て当っているし、間違っているといえば、凡てが間違っているのです。本来、一茶のような人間に定義をつけるのが間違いなのです……ごらんなさい、これは天明から文政の間、まあ一茶の盛りの時代に出た全国俳諧師の番附ですが」
といって俳諧師は、行李《こうり》の中から番附を取り出して良斎に見せ、
「本来、風流に番附があるべきはずのものではありませんが……俗世間には、こういうものを拵《こしら》えたがる癖がありましてね。この番附には一茶が入っておりません、たまに入っているかと思えば、二段目ぐらいのところへ申しわけに顔を見せているだけです。しかし、これは仕方がありません、点取り宗匠連が金を使って、なるべく自分の名を大きくしておかないと商売になりませんからね、一つは商売上の自衛から出ているのですが、面白いのは、一茶の子孫連中が、その祖先の有難味にいっこう無頓着で、一茶が最後の息を引取った土蔵――それは今でも当時のままに残っておりますが、左様、土蔵といったところで、一間半に二間ぐらいのあら[#「あら」に傍点]壁作《かべづく》りのおんどる[#「おんどる」に傍点]みたようなもので、本宅が火事に逢ったものだから、一茶はこの土蔵の中に隠居をして、その一生涯を終りました、その土蔵の中へ、ジャガタラ芋《いも》を転がして置きました、たまに、わたしどもみたような人間が訪れて礼拝するものですから、その子孫連中があきれて、何のためにこんな土蔵を有難がるのか、わからない顔をしている有様が嬉しうございました……西洋の国では、大詩人が生れると、その遺蹟は国宝として大切に保護しているそうですが、日本では、一茶のあの土蔵も、やがて打壊されて、桑でも植えつけられるが落ちでしょう。一茶というものは、時代とところを離れて、いつまでも生きているものだから、遺蹟なんぞは、どうでもいいようなものですけれど……一茶の子孫の家ですか、それは柏原の北国街道に沿うて少し下ったところの軒並の百姓家ですが、今も申し上げた通り、自分の先祖の有難味を知らないところが無性《むしょう》に嬉しいものでした。家を見て廻ると、あなた、驚くじゃありませんか、流し元の窓や、唐紙《からかみ》の破れを繕《つくろ》った反古《ほぐ》をよくよく見ると、それがみんな一茶自筆の書捨てなんですよ。知らずにいる子孫は、いい反古紙のつもりで、それを穴ふさぎに利用したものです。あんまり驚いたもんですから、わたしどもはそれを丁寧にひっぺがしてもらって、こうして持って帰りました。それからこの渋団扇《しぶうちわ》、これもあぶなく風呂の焚付《たきつけ》にされるところでした。ごらんなさい、これに『木枯《こがら》しや隣といふも越後山』――これもまぎろう方《かた》なき一茶の自筆。それからここに付木《つけぎ》っ葉《ぱ》があります、これへ消炭《けしずみ》で書いたのが無類の記念です。一茶はああした生活をしながら、興が来ると、炉辺の燃えさしやなにかを取って、座右にありあわせたものに書きつけたのですが、こんなものをその子孫が私どもに、屑《くず》っ葉《ぱ》をくれるようにくれてしまいました。あんまり有難さに一両の金を出しますと、どうしても取らないのです、そういう不当利得を受くべきはずのものじゃないと思ってるんですな。これは、先祖の物を粗末にするというわけじゃない、その有難味のわからない純な心持が嬉しいのですね。それでも一茶自身の書いた発句帳、これはその頃の有名な俳人の句を各州に分けて認《したた》めたもの、下へは罫紙《けいし》を入れて、たんねんにしてあった、これと位牌《いはい》、真中に『釈一茶不退位』とあって、左右に年号のあるもの、これだけは大切に保存していました」
俳諧師は、話しながら、渋団扇だの、付木っ葉だのを取り出して良斎に見せました。
その時分、お雪ちゃんは、ただ一人で広い湯槽《ゆぶね》の中につかっておりました。
今、髪を洗ったばかりと見えて、それをいいかげんに背から湯槽の縁《ふち》へ載せ、首だけだして身体《からだ》をすっかりと湯につけています。
ここの湯槽は、一間に一間半ぐらいなのが八つあって、その八つの湯槽には、それぞれ名前がついているのだが、そのなかで疝気《せんき》の湯がいちばん熱く、綿の湯というのが名前の如く、やわらかくてぬるいことになっているが、それは盛りの時分のことで、今はどれも同じようなもので、お雪はやわらかな綿の湯につかりながら、白骨《しらほね》の名の起る白い湯槽《ゆぶね》の中を見ていました。この湯槽は石灰分がくッついているせいか、どれも白くおぞん[#「おぞん」に傍点]でいて、湯の水も白いように見えるが、流れ出す湯口を見ると無色透明で入浴の度毎に飲むと利《き》き目があるということだから、お雪も今、それを少しばかり飲んでみました。
いつもならば、こうしていると誰か入りに来るのですが、今日は全宿の大部分は熊狩りに出動してしまっているし、三階の牡丹《ぼたん》の間へ間替えをした浮気ッぽい後家さん主従は、別段物争いの音も立てず、炉辺で話をしているのは国学者と俳諧師ですから、どう間違っても掴《つか》み合いになる心配はなし、昼日中《ひるひなか》が太古のような静かさで、お雪は自分一人がこの温泉にいるような、いい気持になってしまいました。
そのうちに、お雪ちゃんが思い出しておかしくてたまらないのは、この間お雪が、竜之助から護身の手を教わったという話を聞いて、宿の留守番の嘉七という若い剽軽者《ひょうきんもの》が、
「わしらはハア、剣術もなにも知らねえが、敵が前から斬りかけて来た時は、ハア、額で受けらあ、後ろから斬りかけて来た時は背中で受けまさあ」
とすました顔でいったことです。
お雪は、その時の嘉七の言葉と顔付がおかしいといって、ころげるほど笑いましたが、今もそれを思い出すと、ひとりおかしくなって、おかしくなって、ことに嘉七の額が少しおでこだものですから、額で受けらあという言葉が一層|利《き》いたので、今も湯槽《ゆぶね》の中でその思出し笑いが止まらないのです。
三十三
さてまた弁信法師は一面の琵琶を負うて、またもうらぶれ[#「うらぶれ」に傍点]の旅に出でました。
ここは峡中《こうちゅう》の平原、遠く白根の山の雪を冠《かぶ》って雪に揺曳《ようえい》するところ。亭々たる松の木の下に立って杖をとどめて、悵然《ちょうぜん》として行く末とこし方をながめて立ち、
「茂ちゃん、お前のいるところはわたしには、ちゃんとわかっているようで、それで、どうしても逢えないの。今も、わたしのこの耳に、お前が、わたしに逢いたがっているその声が、ようく聞えるんですけれども、わたしにはお前のいるところがわからない」
弁信は松の梢《こずえ》の上を仰いでこういいました。これはこの法師にとっては珍しいことではありません。いつでも、人なきところに人を置き、声なきに声を聞いては、それを有るものの如く応対するのが、このお饒舌《しゃべ》り坊主の一つの癖であります。
「ですから、昨日《きのう》もああしてお前に逢えないで過ぎました、今日も逢うことができないで暮れようと致します、明日はどうでしょう……どうかして、わたしはお前をたずねだして逢いたいと思うけれども、今日ここで逢えないように、明日|彼《か》のところで逢えないかも知れません、或いは今生《こんじょう》この世で逢えないのかも知れません……といってわたしは、それを悲しみは致しませんよ、今生に逢えなければ後生《ごしょう》で逢いましょう、ね、茂ちゃん」
弁信はこういって暫く声を呑みましたが、また、ねんごろに言葉をつづけました。
「茂ちゃん、お前は後生というのを知っていますか……人間に生《しょう》を受けたこの世は長くても百年。五十年を定命《じょうみょう》と致すそうでございます。けれども生命の流れは曠劫《こうごう》より来《きた》って源《みなもと》を知ること能《あた》わず、未来際《みらいざい》に流れてその尽頭《じんとう》を知ることができないのですよ。五十年百年の命は、この長き生命の流れに比べますと、電光朝露《でんこうちょうろ》よりも、なお速《すみや》かなものだと思いませんか……後生がないという人は、一日の間に昼夜がないというのと同じことです、死は暫くの眠りでございます……」
ここに至ると弁信は、茂太郎に向って語るのだか、それとも、他の見えざる我慾凡俗の衆生《しゅじょう》に向って語るのだか、わからない心持になったと見えて、
「皆様、人間の死は一つの眠りでございます、眠りの間にも生命は働いているのでございます……ただ一日の夜は、正確な時間の後に万人平等に来りますけれども、人間の死にはきまりというものがございません、死の来る時だけは、人間の力で知ることができず、制することもできません。皆様、それを恨むのは間違いです、人は病気で死んだ、災難で死んだといいますけれども、この世で病気に殺されたり、災難に殺されたりした者は一人もあるものではございません……いいえ、いいえ、お聞きなさい、そうです、そうです、人間は決して病気や災難で死んだものではありません、この世につかわされた運命が、そこで尽きたからそれで死ぬのです……今生《こんじょう》の善根が、他生《たしょう》の福徳となって現われぬということはなく、前世の禍根が、今生の業縁《ごうえん》となってむくわれぬというため
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