ら、私が近寄って見ますと、それがあなた、お気にかけなすっちゃいけませんよ、お内儀さんの死骸なんです。あなたが殺されて、あの沼の中へ投げ込まれているのを、私はまざまざと見たものですから、それが気になってたまらないでいるところへ、今日、こうして、あなたが沼の方へ、ズンズンとおいでなさるものですから、遠くで私が見ていますと、なんのことはない、あなたは、沼にすむ魔物に引寄せられておいでなさるとしか見えないものですから、私は我を忘れて、あなたの跡を追いかけて参りました、そうして大きな声をして、あの通りにお呼び申してみました。それでもようございました、危ないところをお助け申しました。これからは決してお一人歩きをなさらないようになさいまし、どうぞ……」
浅吉は一生懸命でこのことをいいますのに、後家さんは案外平気で、
「お前、このごろ、どうかしているよ」
「いいえ、わたしより、お内儀《かみ》さん、あなたがどうかしておいでなさるのですよ」
と浅吉は例になくせわしく口を利《き》いて、
「あなたは魔物に引摺《ひきず》られておいでなさるんですよ」
「ばかなことを言っちゃいけないよ、どこに魔物がいます」
「いけません、お内儀さん、危ないのは、魔物にひっかかったと思う時よりも、魔物をひっかけたと思っている時の方が危ないのです」
「わけのわからないことをお言いでない、魔物なんてこの世の中にありゃしませんよ、みんなあたりまえの人間ですよ、人間並みにつきあっていさえすりゃ、怖いものなんてあるものか」
「そ、そ、それがいけないのです、お内儀さん、御当人にはわかりませんが、傍《はた》で見ていると、よくわかります、あの人は、今にきっと、お内儀さんも、私も殺してしまう人ですよ、早く逃げないと……」
「逃げたけりゃ、お前ひとりでお逃げ、お前こそ、わたしを殺そうとしたじゃないか、この間の晩のあのざまは何です」
「あれは、お内儀さん、その、夢ですよ。その怖い夢を見たものですから、思わず知らず力がはいって、あんなことになりました。お詫《わ》びをして許していただいたじゃありませんか。もうあれっきり、あのことをおっしゃって下さらないはずじゃありませんか」
「いいよ、そう申しわけをしなくったって。ちっとも怖かないから……第一、お前に人を殺すだけの度胸がありゃ頼もしいさ」
「お内儀《かみ》さん、それをおっしゃらないで下さい、私だって……」
「私だって、どうしたの」
浅吉がギュウギュウ問い詰められている時に、小屋の裏戸が鳴りました。
裏口の戸をガタピシとあけて、そこへ現われたのは、狩衣《かりぎぬ》をつけて、藁《わら》はばき[#「はばき」に傍点]、藁靴を履《は》いた、五十ばかりの神主体《かんぬしてい》の男。金剛杖を柱に立てかけて、
「これはこれは」
おのれが留守中の来客を見て、挨拶の代りに、これはこれはといって、
「は、は、は、は……」
とさも陽気に笑いました。
「お帰りなさいまし、お留守中に失礼を致しました」
浅吉が申しわけをすると、
「なんの、なんの、そのままにしていらっしゃい。いやどうも、いいお天気で、は、は、は……」
と、いいお天気そのもののように、神主は明るく笑いました。
「あんまりいいお天気だものですから、こうしてブラブラと遊びに出かけました」
と後家さんがいうと、神主は、
「ああ、そうでしたかい、そうでしたかい、よくおいでたの。わしは昨晩、室堂《むろどう》へ泊りましての、御陽光を拝みましての、御分身がすっかり身にしみ渡りましたので、よろこんで下山を致して参りましたわい。さあさあ、もっと火をお焚きなされ、火をたいて陽気になされませ」
こういって神主は藁靴、藁はばき[#「はばき」に傍点]をとって、炉辺に坐り込み、薪を炉の中にくべました。
「お山の上はずいぶん雪が深うございましたろう、よくおのぼりになりましたね」
「ええ、ええ、もう、積雪膝を没するばかりで、風でも吹いてごろうじろ、とても上り下りのできるものではございません、当分は室堂へお籠《こも》りのつもりで出かけましたが、今朝は御陽光がすっかり身にしみて、この通りの上天気だものですから、一気に室堂から下って参りましたわい」
「御修行でおいでなさればこそ、とても並みの人にはできません」
と後家さんが感心してお世辞をいうと、浅吉が、これに継ぎ足して、
「ほんとに、お羨《うらや》ましうございます、わたしなんぞは、こんな若いくせをしまして、火の傍ばっかり恋しがっているのに、この寒空を、あの高い山まで楽々と上り下りをなさるのは、恐れ入りました、御修行とはいいながら、大したものです」
「なんの、なんの……修行というほどのことではございません、誰にもできることですよ。高いお山の上へ登って御陽光を分けていただきますと、もうこの心持が嬉しくなって、世間が晴々しくなって、この足が自分ながら躍《おど》り立つように軽くなりましてな、山坂を上ることも、下ることも、寒さも風も苦にはなりませんわい。こうして小屋へ帰って、焚火の光を見ますと、火の光がまた、なんともいえない陽気なもので、嬉しくなります、は、は、は……」
神主は嬉しくてたまらないように、しきりに喜んでいたが、ふと浅吉の顔を見て、
「若衆《わかいしゅ》さん、お前さん、また何か鬱《ふさ》ぎ込んでいますな、いけません、一人鬱いでいると、室内がみんな陰気になりますから、おやめなさい、人間、陰気ということがいちばんいけないのですて……人は陽気がゆるむと、陰気が強くなります。陰気というのは、つまりけがれのことで、けがれは、つまり気を枯らす気枯《けが》れということでござってな、お天道様の御陽光が消えると、けがれが起るのじゃ。お前さん、陰気だ、陰気だ、これはいけない、いけない、陽気にならっしゃい、ちと外へ出て御陽光を吸っておいでなさい……お前さんがいるために、この小屋の内までが変に陰気くさくなっていましたわい、ドリャお祓《はら》いをして進ぜよう」
と言って元気に老神主は立って、神棚の前の御幣を持って来て、
「朝日権現は万物の親神……その御陽光天地に遍満し、一切の万物、光明温暖のうちに養い養われ、はぐくみ育てらる……」
と言って、二人の頭の上で、しきりにその御幣を振りかざしました。
この幣束《へいそく》で、お祓《はら》いをしてもらったのだか、祓い出されたのだか、二人はほどなく小屋の外へ出てしまいました。
「ごらん、お前があんまり陰気な顔をしているもんだから、あの神主様にまでばかにされてしまった」
といって、後家さんが浅吉をこづきました。浅吉はよろよろとして踏みとどまるところを、後ろから行って後家さんがまたこづきました。
「ホントに陽気におなりよ、意気地なし、陰気はけがれだと神主様も言ったじゃないか、お天道様の御陽光が消えると、けがれが起ると神主様がそうおっしゃったよ、ホントにお前はけがれだよ」
「だって、お内儀さん……」
恨めしそうに後ろを向きながら、浅吉がまたよろよろとよろけて踏みとどまると、
「お前がいると陰気くさくっていけないって、体《てい》よく追っ払われたんじゃないか、外聞が悪い」
といって後家さんが三たびこづくと、浅吉がまたよろけました。
「意気地なし」
後家さんから四たび突き飛ばされて、二間ばかり泳いで踏みとどまった浅吉は、
「それは御無理ですよ」
やはり恨めしそうに振返ったけれど、あえて反抗しようでもなければ、申しわけをしようでもありません。小突かれれば小突かれるように、むしろこうして虐待されたり、凌辱されたりすることを本望としているかの如く、極めて柔順なものです。
そうして、突き飛ばされて、突き飛ばされて、二人の姿は小梨平から見えなくなりました。
そのやや暫くあとで、机竜之助は、林の蔭から、こっそりと身を現わして、鐙小屋《あぶみごや》に近いところの岩間から湧き出でる清水を布に受けて、頭巾《ずきん》を冠《かぶ》ったなりで、うつむいては頻《しき》りに眼を冷し冷ししていると、小屋の中から手桶をさげて出て来た神主が、
「これは、これは――」
といって、竜之助の仕事を立って見ていましたが、
「それは利《き》きますよ、水でなけりゃいけません、湯では本当の修行になりませんな……白骨の温泉の雌滝《めだき》に打たれるより、この水で冷した方が、そりゃ利き目がありますよ」
「どうも、しみ透るほど冷たい水だ」
と竜之助が眼を冷しながら答えると、神主が、
「トテモのことに、室堂の清水まで行って御覧になってはいかがです、これどころじゃありません……それから一万尺の権現のお池へ行って、神代ながらの雪水をむすんでそれを眼にしめして、朝な朝なの御陽光を受けてごらんなさい、癒《なお》りますよ」
「御陽光というのは何だね」
「朝日権現のお光のことでございます、黒住宗忠様が天地生き通しということをおっしゃいましたのを御存じでしょう」
「知らない」
「三月の十九日に、宗忠様は、もう九死一生の重態の時に、人に助けられて、湯浴《ゆあみ》をして、衣裳を改めて、御陽光をお拝みになりましたから、家の人たちは、もうこの世のお暇乞《いとまご》いを申し上げるのだろうと思っていましたところが、御陽光が宗忠様の胸いっぱいになって、それより朝日に霜の消えるが如く、さしもの難病がことごとく御平癒になりました」
「ははあ」
「久米の南条の赤木忠春様は、二十二歳の時に両眼の明を失いましたけれど、宗忠様の御陽光を受けてそれが癒りましたよ」
「ははあ」
「御陽光に背《そむ》いてのびる人間はなし、御陽光を受けて癒らぬ病人というのはございません……まあ、一度、この乗鞍ヶ岳へお登りなさいませ、そうして、朝日権現の御前に立って、蕩々《とうとう》とのぼる朝日の御陽光を拝んで御覧あそばせ、それはそれは、美麗とも、荘厳《そうごん》とも……」
と言いかけて、美麗荘厳はこの人に向って、よけいなことだと気がつきました。
三十一
宿では、お雪ちゃんが炬燵《こたつ》に入って人形に衣裳しているところへ、竜之助がフラリと帰って来ました。
「あ、先生、お帰りなさいまし」
衣裳人形を片手にして、お雪は帰って来た竜之助を見上げると、竜之助は刀を床の間へ置いて、静かにお雪ちゃんと向い合わせの炬燵に手を入れました。
お雪はにっこりと笑って、
「お迎えに上ろうと思いましたが、たぶん鐙小屋《あぶみごや》だろうと思ってやめました」
「そうでしたか、わたしも、お雪ちゃんを誘って行こうと思ったが、歌に御熱心のようだから、一人で出かけましたよ」
「ええ、ずいぶん、あの先生偉い先生よ、お歌の方の学問では京都でも指折りの先生ですって……」
「それはいい先生が見つかって仕合せだ」
「全く仕合せよ、あなたには武術の護身の手というのを教えていただくし、あの池田先生には歌を教えていただくし……」
お雪は心から、自分の今の身の上の幸福を感じているらしい。そうして、今ちょっと手を休めた衣裳人形の着物の襟《えり》を合わせはじめると、竜之助が、
「お雪ちゃん、どうだ、乗鞍ヶ岳へのぼってみようではないか」
「え、お山登りですか、結構ですね。ですけれども……」
お雪は人形の手を袖へ通して、
「けれども今はいけませんね、せめて春先にでもなってからでしょう」
「ところがいま登ってみたいのだ」
「この雪の深いのに……」
「左様……あの鐙小屋の神主が案内をしてくれるといいました」
「あの神主様が案内をして下さる? それだって、先生、今は行けやしませんよ」
「どうして?」
「どうしてとおっしゃったって……ここには雪はありませんが、外へ出てごらんなさい、山はみんな真白ですよ、吹雪でもあったらどうします」
「それでも、あの神主は、昨晩|室堂《むろどう》へ泊って易々《やすやす》と帰って来た」
「そりゃ、仙人と並みの人とはちがいますよ、山で修行している人と、たまにお客に来た人とはちがいますもの」
「だから、その山で修行した人が先達《せんだつ》をしてくれればいいわけではないか」
「そりゃ
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