その時、竜之助が反問したのを、後家さんは充分に聞き取れないほどせき込んで、
「幾人って、あなた……」
 鸚鵡返《おうむがえ》しに、
「そう幾度も悪いことができるものですか……わたしは、それでも今は度胸がすっかりすわりましたよ……ですから先生、自分に覚えがあるものですから、人を見れば直ぐにわかりますのよ……この人は人を殺したことがあるかないか、心の底がちゃあんと、わたしには読めるようになりました。ここまで申し上げたら、あなたも、懺悔話《ざんげばなし》をして下すってもいいでしょう」
 ここに至って、後家さんの腹がおちついて来たらしく、言葉が浮いて来て、
「それで、そういう人と見ると、わたしはなんだか、自分の味方を見つけでもしたように、無性《むしょう》にたのもしくなってしまって……なんでもかでも、すっかりぶちまけて、その人にやってしまいたいような気になるのですね、おかしいでしょう」
 道はようやく沼を離れてしまって、林の中深く入って行くようです。
「先生、わたしにばかり白状させてしまっては罪ですよ、懺悔話をお聞かせください、ぜひ、どうぞ」
 度胸がおちついたとはいうものの、手ごたえがないので、不安が不安を追っかけるように、後家さんは竜之助に促《うなが》しました。
 けれども、何としてか、竜之助は答えることなしに、少し歩みを早めて、ずんずんと後家さんより先に立って木立の中深く進んで行くものですから、後家さんは、肪《あぶら》ぎった大きな身体《からだ》をそれに引きずられるように、追いすがるように歩いて、
「あんまり奥へおいでになってはいけません……お池の方へ戻りましょうよ」
 その時、沼のあなたに当って、谺《こだま》を返す一つの呼び声がありました、
「お内儀《かみ》さん――お内儀さん、どちらへおいでになりました」
 それは林を隔て、沼を隔てて呼ぶ浅吉の声にまぎれもありません。
 この声を聞くと後家さんが、いまいましそうな、また、いつになく怖ろしそうな顔になって、声のする方へ向き直ったけれども、そちらへ足をめぐらそうとはしません。
 机竜之助もまた、その時、ずんずんと進んでいた足をとどめて立っていると、
「お内儀《かみ》さん――お内儀さん、お迎えに参りましたよ、お一人歩きをなさると、お危のうございますよ」
 甲《かん》に高い浅吉の呼び声は、感情もまたたかぶって、沼のほとりを、あちらこちらとさがし廻っている様子が、なんとしても穏かには響きません。
「お内儀さあ――ん……」
 聞いていると、どこまでも嫉《ねた》みを持ってものを追い求める声です。
「ねえ、先生……」
 後家さんは、半ば恐怖の色を以て、竜之助にすがるように、
「あれは、うちの浅公ですよ……御存じでしょう、わたしの雇人ですが、このごろ、どうしたものか、わたしを恨んでいます……恨んではいるけれども、口に出しても、手に出しても、何もすることはできない意気地なしなんですが、ああいう意気地なしが思いつめると、また何をしでかすかわかったものではありません……この間の晩も……」
といって、後家さんの唇の色が変って、舌がもつれました。
「ねえ、先生、この間の晩、夜中に、どうも変ですから、ふいに眼がさめて見ますとね、あの野郎がわたしのこの咽喉《のど》をおさえて、こうして……わたしを絞めようとしていたんですね、吃驚《びっくり》して、起き直って、わたしが、とっちめてやりますと、泣いてあやまりましたが、あんなのがかえって怖いのかも知れません。ですから、先生、ぜひ、あの護身の手を一つ教えておいてくださいまし、もし、不意に咽喉でも絞めに来るとか、また刃物でも持って向って来た時には……」
 後家さんが、再び、護身の手のことをいい出した時、竜之助はその左の腕を後家さんの背後から伸ばして、その襟《えり》を取ってグッと絞め、
「左様、後ろから絞められた時は……」
 不意でしたから後家さんが、よろよろとよろけかかりました。
 不意のことでしたから、後家さんも仰天《ぎょうてん》して、よろよろよろけかかるのを竜之助は、
「もし、これを強く絞めようと思えば、こう親指を深く入れて、べつだん力を入れずにグッと引きさえすれば……動けば動くほど深くしまるばかりだ」
と言いながら、後ろから腕を深く入れると、後家さんは、
「あ、あ」
といって息を吹くばかりで口が利《き》けません。後家さんの聞こうとするのは、深く絞める仕方ではなく、絞められた時に、振りほどく手段なのです。ですから、いったんしめた手をゆるめて、その解《と》き方を示すべき時に、竜之助は、無意味にその手をゆるめられなくなりました。
 この男には、かりそめの絆《ほだし》が、猛然たる本能を呼び起すことは珍しくないので、活殺の力をわが手に納めた時に、それを無条件でつっぱなしきれなくなるのがあさましい。かりそめにしめあげた腕はゆるめなければならないのに、人間の肉が苦しみもがく瞬間の、はげしい運動と、熱い血潮に触れると、むらむらとして潜在の本能がわき上ります。
「苦しいか」
「く、く、苦……」
 後家さんは、必死となって竜之助の腕にすがって、その蛇のような腕を振りほどこうともがいたが、それは、さいぜん予告しておいた通りに、もがけばもがくほど深く入るだけで、力を入れるそのことが、いよいよ敵に糧《かて》を与うる理法となっていることを知らない。
 はっ! と落ちたか、落ちない時に、それでも竜之助は手を放しました。手を放すと、肥満した女の骸《むくろ》が、朽木《くちき》のように、自分の足もとに倒れたことを知りました。
 しかし、それは、ほんの少しの間たつと、倒れた後家さんは半眼を見開いて、
「先生、あんまり酷《ひど》い」
といいました。死んだのではなかったのです。
「あんまり酷いじゃありませんか、殺さなくってもいいでしょう、お雪ちゃんに教える時にも、こんなになさったの……?」
 半醒《はんせい》のうちに、後家さんは、竜之助に怨《えん》じかけました。地獄をのぞいていまかえった人というような見得《みえ》で……
 それから、やがてまた二人が相並んで、林の中をそぞろ歩きして行くのを見かけます。
 その時分、林のあなたでは、またも男妾《おとこめかけ》の浅吉が烈しく呼ぶ声、
「お内儀《かみ》さん、どちらへおいでになりましたんですよ、一人歩きは危のうございますよ、お迎えに上りましたよ」
 多分、二人の耳には、以前から、その金切声が再々入っているはずですけれども、あえて耳を傾けようとはしませんでしたが、
「お内儀さあ――ん」
 そこで後家さんが小うるさくなって、
「気が違やしないか知ら、浅公――」
とつぶやきました。
 しかし、その浅公も、もうかなり呼び疲れたと見えて、それからしばらく呼び声が絶えてしまいました。
「ねえ、先生、そういうわけですから、意気地なしほど思い込むと怖いかも知れませんよ。用心のために……殺しちゃいけませんよ、今のように殺さないで、殺しに来るのを避ける法を教えて下さいましな、あれを外《はず》す仕方を教えて下さいましな」
といって、もうケロリとして、今の苦しかった地獄の門を忘れてしまったようです。事実、或いは苦しかったのではないかも知れない。上手にしめられると苦しいと感ずるのは瞬間で、それから後は恍惚《こうこつ》として、甘い世界に入るように息がとまってゆくそうな。こういう図々しい女は、再びその甘い死に方をして、また戻って来る気分を繰返してみたいのかも知れない。
「それを外《はず》すのは雑作《ぞうさ》もない」
といって、竜之助は再び後家さんの首を後ろから締めにかかると、
「先生、殺しちゃいけませんよ」
 今度は後家さんも覚悟の前ではあるし、竜之助も心得て、以前ほど強くは締めず、ゆるやかにうしろから手を廻して、
「これをこうすれば袖車《そでぐるま》……」
「もっと強く締めて下さい」
 その時、サッと木の葉をまいて、風のような大息をつきながら、そこへ馳《は》せつけたものがありました。
「お、お、お、お、お内儀《かみ》さん――」
 真蒼《まっさお》になって、ほとんど口が利《き》けないで、そこに踏みとどまりながら、吃《ども》っていましたから、竜之助も手をゆるめ、後家さんも向き直って見ると、それは男妾の浅吉でありました。
「お内儀《かみ》さん、あぶない――」
「浅吉、お前何しに来たの?」
「え、え」
「何しに来たんですよ、たのまれもしないに――」
「でも、お内儀さん、この節は、お一人で山歩きをなさるのは、お危のうございますよ」
「子供じゃあるまいし」
 後家さんは、ひどく邪慳《じゃけん》な色をして、浅吉に当りました。
「でも、お内儀さん、私は、あなたが今、この方に殺されているのだとばかり思ったものですから……」
 事実、浅吉はそう思って、その主人の急場を救わんがために駈けつけたものに相違ない。ところが来て見れば、当の御本人が至極平気で、かえって助けに来た自分を邪慳にし、
「そんなわけじゃないよ、お前こそ、わたしを殺したがっているくせに……」
「どう致しまして」
「さっきから、なんだって、あっちこっちでわたしを呼び廻っているの。山の中だからいいけれど、世間へ出たら外聞が悪いじゃありませんか」
「どうも済みません」
「いいから、お帰り、お前ひとりでお帰り、わたしはこの池を廻って帰るから……」
「ですけれど、お内儀《かみ》さん……」
「何です」
「お危のうございますよ」
「何が危ない。しつこい人だ、お前という人は。うるさい!」
「けれども……」
「大丈夫だよ、お前こそ一人歩きをして、熊にでも食われないように、気をおつけ」
 後家さんは、こういって浅吉を振りつけて行こうとすると、浅吉の眼の色が少し変りました。
「お内儀さん……どうしても危ない、あの方と一緒に歩いてはいけません」
「何をいっているんだい、失礼な」
「どうぞ、わたしと一緒にお帰りなすって下さいまし」
 浅吉は、とうとう後家さんの袖をつかまえてしまいました。これほどに思い込んで引留めることは、この意気地無しには珍しいことです。
「お放し」
 それを振りもぎって、振向いて見ると、たったいま自分の首を締めた人が、そこに見えない。
「おや?」
 後家さんは、慌《あわ》てて、四辺《あたり》を見廻したけれども、その姿は消えてしまっている。林の中にも、沼の岸にも、それらしいものが見えないから、
「おや、どこへおいでになった?」
 後家さんが、狼狽《うろたえ》ていた時、浅吉は透《すか》さず再びその袖を取って、
「お帰んなさいまし、わたしと一緒に帰れば生命《いのち》に別条はございません」
「何をいってるんだよお前は。お前こそ、わたしにとっては気味が悪いよ」
といって、後家さんはせきこんで、林の中へ駈けて行こうとするのを、浅吉が後ろから必死の力で抱き止めて、
「お内儀さん、あなたは死神につかれています、死神に……」
 男妾の浅吉の必死の力を、さしも大兵《だいひょう》の後家さんが、とうとう突き飛ばしきれず、それに取押えられてしまいました。
 ほどなく薯虫《いもむし》が蟻に引きずられて行くように、この大兵の後家さんが、男妾の浅吉に引っぱられて、沼の岸を逆に戻って行く姿が見えましたが、やがて鐙小屋《あぶみごや》の前へ来ると、断わりなしにその戸をあけて二人が中へ入りました。
 小屋はかなりの広さに出来ていて、正面には神棚があって、御幣《ごへい》の切り目も正しくして新しい。
 浅吉は、小屋の中へ御主人を誘《いざな》って、自分はかいがいしく一方の炉に火を焚きつけて、向い合って話をはじめました、
「ねえ、お内儀《かみ》さん、私はなにも人様の讒訴《ざんそ》をするわけではございませんが……あの方の人相をごらんなさい。昨晩も夢を見ましたよ。私は毎晩のように、このごろは夢を見ますのは、みんなほかの夢じゃございません、お内儀さんも私も、あの方に殺されてしまう夢なんです……昨夜もね、ちょうどそれ、あの無名沼《ななしぬま》なんですよ、あの沼の中に何か白いものが光って見えますか
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