おとこみょうり》の頂上だと、浅吉は、羨《うらや》ましくなりました。そこで勢い浅吉は、一人の後家さんから完全に圧服されてしまって、グウの音も出ない自分というものの意気地無さかげんに、軽少ながら憤りの心をさえ起してみました。
「私だって男だ」
という義憤がむかむかと湧き起ったのは、この男としては珍しいことです。といって、こういう男の義憤も、一概に軽んずるというわけにはゆきますまい。
「私だって男だ」
 浅吉は、わくわくとして、ひとり憤りを発していましたが、まだ誰も帰って来ません。自分ひとり、腹を立っているのだということがわかりました。

         三十

 机竜之助はこの日、湯の宿を出て小梨平の方へ歩いて行きました。
 かたばみの紋のついた黒の着流しのままで、頭と面《かお》は、頭巾《ずきん》ですっぽり[#「すっぽり」に傍点]とつつんではいるが、その頭巾なるものが、宗十郎というものでもなく、山岡でもなく、兜頭巾《かぶとずきん》でもなく、また山国でよく用うるかんぜん[#「かんぜん」に傍点]帽子というものでもなく、ただ、あたりまえの黒縮緬《くろちりめん》の女頭巾を、ぐるぐるとまいて山法師のかとう[#「かとう」に傍点]を見るように、眼ばかり出したものです。
 四面はみな雪ですけれども、山ふところは小春日和《こはるびより》。
 白樺や桂《かつら》の木の多いところをくぐり、ツガザクラ[#「ツガザクラ」に傍点]の生えたところをさまよい、渓流に逢っては石をたたいて見、丸木橋へ来ては暫くその尺度をうかがって、スルスルと渡りきり、雑草多きところでは衣裳を裾模様のように染め、ある時は呼吸せわしく、ある時は寛々《ゆるゆる》として、上りつ下りつして行きました。
 このごろは、だいぶ身体《からだ》もよくなったせいでしょう、こうしているところを前から見ても、横から見ても、誰も病人と見る者はないほどに、姿勢もしゃん[#「しゃん」に傍点]としているし、カーヴの甚だ急に変ずるところでない限り、杖を使わないで歩いて行くところを見れば、誰も、これが盲目《めくら》の人だとはおもいますまい。
 竜之助の、さして行かんとするところは小梨平に違いない。それより遠くへは冒険になるし、それより近いところには、たずねて行って見ようとするものもない。
 小梨平には鐙小屋《あぶみごや》というのがありました。先日、竜之助はお雪の案内で、そこまで散歩を試みたことがあるのです。さればこそ、今日はこうして手放しで、山谷の間を、ひとり歩きができるということになっているのでしょう。
 白昼に見るせいか、今日はたしかに人間の歩き方になっている。本体を宿へ置いて、遊魂そのものだけが街頭に人を斬って歩く時とは違い、少なくとも人間そのものが、足を大地に踏まえて歩いているように見える。
 方二町ばかりの小沼の岸に立った時に、乗鞍《のりくら》ヶ岳《たけ》が、森林の上にその真白な背を現わしました。雪をかぶった乗鞍ヶ岳の背は、名そのままの銀鞍《ぎんあん》です。銀鞍があって白馬はいずこへ行った。それはこれより北に奔逃《ほんとう》して、越後ざかいに姿を隠している。
 沼に沿うて銀鞍が再び森に沈んだところに、いわゆる鐙小屋《あぶみごや》があります。
 竜之助はこの間お雪に導かれて、ここに来た時のことを思い出しました。
「ねえ、先生、ここに綺麗《きれい》なお池がありますのよ。ごらんなさい、この水の澄んでいて静かなこと、透き通るようですわ。あれ、大きな魚が……山魚《やまめ》でしょうか。おお、つめたい、この水のつめたいことをごらんなさい、指が切れるようです、あたりまえの水の何倍つめたいことでしょう。後ろを振返ってごらんなさい、真白な山、あれが乗鞍ヶ岳ですとさ。先生、あなたは、あの山に登ってみたいとお思いにならない……お思いになっても駄目ですわね、あなたには登れませんから。あたし、女でも登ってみたいと思いますわ。今は、雪があって登れませんから、来年、雪が解けた時分には、きっと登ってみますわ。あのお山は一万尺からあるんですってね……木曾の御岳山とどちらかだっていうじゃありませんか。あなたは一万尺の山にお登りになったことがありますか。そらごらんなさい、この金剛杖にも『一万尺権現池』と焼印がおしてありますよ。ああいけませんでした、あなたにはおわかりにならない、あの高い山も、この綺麗な水も、金剛杖におされた焼印も……ほんとにお気の毒さまですね」
と言われたのはちょうど、このところです。
 山登りをする者が誰も携えて行く金剛杖、八角に削った五尺余りなのを、今日も竜之助は携えて来ました。
 ここは日当りがことによくて、風の当りも少ない。竜之助は目的の鐙小屋《あぶみごや》へ行くことを忘れて、暫くそこに立っていました。
 高山の麓《ふもと》、腹、頂《いただき》などには、太古以来といっていいほどの小屋掛けが、思いがけないところに散在する。それがある時は殺生小屋《せっしょうごや》であり、ある時は坊主小屋であり、あるいは神仏混淆《しんぶつこんこう》に似たる室堂《むろどう》であったりする。
 由来、坊主小屋は樹下に眠り、石上を枕とする捨身無一物の出家が、山岳を行く時にかりの宿り[#「宿り」に傍点]と定めた名残《なごり》で、殺生小屋は山をめぐって、生きとし生けるものを殺しつくす生業《なりわい》の猟師が、糧《かて》を置くところと定めていたものだという。持戒者と殺生者とが隣合わせに住むのは、あながち塵の浮世の巷《ちまた》のみではない、高山の上にも、人間が足あとをつける限り、このアイロニーが絶えなかったものと見える。
 ここ、小梨平、無名《ななし》の沼のほとりに立てられた鐙小屋は、いつの世、誰によって、何の目的のために立てられたかわからないが、今でも人が住んでいる。
 けれども、この鐙小屋までは、まだこの沼づたいに相当の距離がある。無名《ななし》の沼の岸を机竜之助は金剛杖をついてではない、それを提げて――静かに歩んで行くと、不意に空《くう》を切って飛んで来た礫《つぶて》が、鏡のように静かで、そして透き通る無名《ななし》の池の中に落ちて、ザンブと音を立てて波紋が、ゆるやかに広がりました。
 そこで、竜之助はハッとして歩みをとどめました。仰いで見たところで、岩石の落ち来るべきところではない、俯《ふ》して見たところで、人の気配のないところ。
 そこで竜之助は歩みをとどめて、石の降って来た方面に面《おもて》を振向けると、第二に飛んで来た石が竜之助の面をかすめて、再び沼の中に落ちて音を立てました。
 第一のものは、いかなるところから、いかなるハズミで飛んで来た外《そ》れ石《いし》か知れないが、第二のものは、たしかに心あってしたものに相違ない。何か自分をめあてに、仕掛ける意図があっての仕業《しわざ》に相違ない。それにしては力の無い石だと思いました。けれども、竜之助の心が動きました。そうして手に提げていた金剛杖の真中を取って、矢止めの型で軽く振ってみた。その杖先に第三の石が飛んで来てカチリと当って下に落ちました。
「ホホホ、驚いたでしょう」
と行手に立って言葉をかけたのは、聞覚えのある声です。いつのまにか叢《くさむら》の上に立ってこちらを見ているのは、例の、飛騨の高山の穀屋《こくや》の後家さんであります。その声を聞くと、竜之助が身顫《みぶる》いをしました。今の悪戯《いたずら》はこいつだ。年甲斐《としがい》もない噪《はしゃ》ぎ方だ。
「ねえ、先生」
と言ってこの後家さんは、そろそろと少し高い所から下りて来て、なれなれしく話しかけました。竜之助を先生と呼ぶのは、お雪ちゃんにカブれたものでしょう。
「貴船様《きふねさま》の前まで出て見ますと、あなたのこちらへおいでになるのが、よく見えたものですから、急いで、あとを追っかけて参りましたよ」
 竜之助のそば近く歩んで来るこの水っぽい後家さんは、よほど急いで来たと見えて、額のあたりに汗がにじみ、まだ息がせいせいしている。
 誰にたのまれて、そう急いで来たのだ。
「ねえ、先生」
と後家さんは、いよいよなれなれしく近づいて来て、息を切り、
「今日はお一人ですか。鐙小屋《あぶみごや》へいらっしゃるのでしょう。留守ですよ、あそこは。神主様は室堂《むろどう》へ行って、おりません……ええ、先廻りをして見届けて参りました。この間はお雪ちゃんに手を引いていただいておいでになりましたのに、今日はお一人でよく道がおわかりなさいましたこと。鐙小屋においでになっても詰りませんから、このお池の周囲《まわり》を歩いてごらんになりませんか。いいお天気で、ホカホカとして春先のような心持が致しますね。このお池を廻って御一緒に宿へ帰りましょう。それともこんなお婆さんと一緒ではおいや……」
 竜之助でなくてもゾッとしましょう。
 無名《ななし》の沼のほとりを、肪《あぶら》ぎった後家婆さんと、竜之助とは、ブラブラと歩いて行きました。
「ねえ、先生、あなたはこの間、お雪ちゃんに護身の手というのを教えておいでになりましたね、あれを、わたしにも教えて下さいましな」
「お前さんが習ってなんにする」
「覚えておいて害にはなりますまい、いざという時……」
「そうです、覚えておいて害にはなりますまい。けれども、あれは若い娘たちのためにするものです。若い時分には、どうも危険がありがちだから、もしこういう場合には、こうして手を外《はず》すとか、この場合にはこうして敵を突くとか、二ツ三ツの心得を、お雪ちゃんに話してみせただけのものです」
「若い時分に限ったことはございますまい、誰だって、あなた、いつ、どういう危ない目に逢うか知れたものじゃありません」
「ははあ……」
 竜之助はそれを聞き流しながら、
「お前さんなんぞは、かっぷくがいいから、そのかっぷくで敵を押しつぶしてしまったら、たいがいの男はつぶれてしまうでしょう」
「御冗談《ごじょうだん》を……」
 後家さんは、まじめに取合われないのを、ちょっとすねてみましたが、
「ねえ、先生」
 暫くして、また改まったように、甘えた口調《くちょう》で呼びかけました。
「ねえ、先生、あなたは人を殺したことがおありなさる?」
 後家さんの肪《あぶら》ぎった面《かお》に、小さい銀色の粒が浮いて来ました。
「何ですって?」
 竜之助は、わざと聞き耳を立てました。
「先生、あなたは人を殺したことがおありなさるでしょう」
「どうして、そんなことを聞くのです」
「でも……」
 ちょうど、道が沼の岸を離れて林の中に入る時分に、後家婆さんは、後ろの方をそっと顧みて、
「それでも、人を殺してみないと、度胸が定まらないっていうじゃありませんか」
「そんなはずはあるまい、人を殺さなくても天性度胸のいい者はいい、臆気《おくびょう》な奴が、かえって大事をしでかすこともあるものさ」
「それはそうでしょう。けれどいちど、人を殺すと、それから毒を食《くら》えば皿までという気になって、腹が出来るというじゃありませんか」
「そうか知ら」
「真剣ですよ、先生、わたしは、真剣で先生にお話し申しもし、先生からお聞き申しもしたいものですから、この通り、話しながらも動悸《どうき》が高くなっているのですよ」
「そうかといって、おれは人を殺しました、と答える奴もあるまい」
「そうおっしゃられてしまえば、それまでですけれど、先生には、わたし、このことをお尋ねしてもいいと思っているから、それでお尋ねしているんですよ。つまり、わたしは、あなたは、たしかに人を殺しておいでなさると見込みをつけてしまったものですから、こんなことを臆面もなくお聞き申すんですが、あなたがお返事をして下さらなければ、わたしの方から白状してみましょうか。これでも、わたし、人殺しをしたことがありますのよ」
 こういって、後家さんは忙がしそうに、四方《あたり》を盗み見ましたけれど、そこは一鳥も鳴かぬ無人のさかいであります。
 強《し》いて人に物を問いかけるのは、必ず自分の身に相当の不安があるからであります。
「幾人!」
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