のはそのあとのことで、お絹とひきちがいに、下男が近所の酒屋へ飛びました。
 お絹は日頃、主膳の酒癖を知っているから、この点は厳しくして酒を禁じていたものです。主膳もまた、その悪癖を自覚しているから、お絹の禁制をかえって力にもしていたようですが、今は、矢も楯もたまらず酒が飲みたくなって、下男を追立てたものです。
 で、居間に入って、ひとりでチビリチビリとやり出した時に、ようやく鬱憤《うっぷん》が、酒杯の中へ燦爛《さんらん》と散り、あらゆる貪著《どんじゃく》がこの酒杯にかぶりつきました。
 やがて癇癪が納まって陶然《とうぜん》――陶然からようやく爛酔《らんすい》の境に入って、そこを一歩踏み出した時がそろそろあぶない。
「誰だ、そこへ来たのは」
 酔眼にようやく不穏の色を浮ばせ、主膳が一喝したのは、まさしく酒乱のきざし[#「きざし」に傍点]と見えました。幸いにそれを真向《まっこう》から受ける相手がいない。
「誰だ、案内もなくそこへ通ったのは?」
 誰もいないはずの人をとがめていると、いないはずのところで、
「はい、これは神尾主膳様」
と返事がありました。
「誰だ、聞覚えのない声じゃ、襖《ふすま》をあけて面《かお》を見せろ」
「神尾の殿様」
「拙者の名を聞くのではない、そちの名をたずねているのじゃ、何者だ」
「御酒宴中のところを、お邪魔にあがりまして相済みませんが……」
「かごと[#「かごと」に傍点]をいわずと、名を名乗れ、案内もなしに、尋ねて来たのは誰じゃ」
といって神尾主膳が、荒々しく向き直りました。
「へえ、どうも相済みませぬ」
 顔を見せないで、声ばかりしている男が、たしかにこの襖の外に来ている。それを聞いて神尾はじれ出しました。
「ただ、済まないでは済むまい、夜陰、人のおらぬはずのところへ忍び込んで来た奴、盗賊に相違あるまい……盗賊でなければ名を名乗れ」
「へえ、恐れ入ります、七兵衛でございます」
「ナニ、七兵衛?」
「左様でございます」
「七兵衛とはどこの何者だ」
「お忘れになりましたか?」
「知らん、左様な者は覚えはない、誰にことわって、何の用で入って来たのだ、不届きな奴」
 神尾主膳は、荒々しく立って長押《なげし》の槍を下ろして、それを突っかけて襖を押開きましたが、誰もおりません。

 ほどなく御行《おぎょう》の松の下に立ったのは裏宿の七兵衛。額の汗をふきながら、
「あぶねえ、あぶねえ」
と言いました。
 この時、生垣《いけがき》の蔭から、不意に槍を持って姿を現わしたのが神尾主膳です。執拗《しつこ》いこと。怪しい者を追いかけて、ここまで槍をつっかけて来たのです。
 神尾主膳には多少槍の心得があって、九尺柄の槍を座に近いところへ置き、いざといえばそれを取ることにしている。いざといわない時も運動の意味で、それをしごいてみることがある。
 今は、そのいざ[#「いざ」に傍点]というほどの場合でもなく、運動のためでもないのに、まさしく酒乱の手ずさみにこの槍がえらばれているもので、こういう際には、平生の技倆以上に思う存分にその槍を使うことが例になっている。かつて染井の化物屋敷では、この槍のためにお銀様が、危うく一命を取られるところでした。
 今はこうして、追わなくてもよい敵を、本城を留守にしておいて追いかけて来たものですから、七兵衛も驚きました。
 また厄介なことにはこういう際には、いやに眼が利《き》き出してきて、暗いところへ逃げ込んだ敵の影も、平生の視力以上に認められるだけの感能が働いてくるようです。神尾主膳の酒乱は、特に凶暴を逞《たくま》しうするために、鋭敏な附加能力といったようなものが現われるのですから始末が悪い。
「あぶねえ」
 驚いた七兵衛は、身をかわして飛び退きましたが、神尾の槍先は、透かさずそれを追いかけて来る。ために七兵衛は、御行《おぎょう》の松を楯に三たびばかりめぐりましたが、無二無三に突きかけて来る神尾の槍先、とてもあなどり難く、ほとんど進退に窮するほどの立場まで突きつめられたので、
「ちぇっ」
といって身を躍らすと、松の幹へ足をかけて、早くも三間ばかり走りのぼってしまいました。突きはぐった神尾主膳、天井裏の鼠をねらうように、槍を空《くう》につき立ててみたけれど、もう駄目です。そこで、あせって、しきりに空をのぞんで突き立てたが、手ごたえがないので、いよいよじれ出しました。
 木の上でホッと息をついた裏宿の七兵衛、
「神尾の殿様……私はあなた様に追われようと思って上ったんじゃありません、あなた様のおためになって上げようと思って上りました、それを、いきなり槍玉にかけようとなさるのは驚きました」
「憎い奴」
「神尾の殿様、落ちついてお聞き下さいまし」
「憎い奴」
「私は、あなた様にお目にかかった上で、ご相談を願いまして、それからひとつ、あの千隆寺へ行ってみようかとこう思いまして、穏かに上ったつもりなのですが……」
「千隆寺?」
 その時、神尾主膳は忘れていた記憶が蘇《よみがえ》って来たものと見え、
「うむ、千隆寺」
と叫んで歯噛みをしました。
「その千隆寺へ、実は七兵衛が、お絹様のおともをして行ってみたかったんです、ところが、どうも、そうはいきそうもございませんものですから、あなた様と御相談をした上で、ひとつ搦手《からめて》から乗込んでみようと、こう思いついて上ったのに、いきなり槍玉の御馳走は驚きました」
 木の上で七兵衛は、なるべく低い声で、ものやわらかに言いますと、主膳の逆上がいくらか引下ったと見えて、
「うむ、では、貴様は盗賊ではなかったのか」
「ええ、まあ、そういうわけでございます」
「では、下りて来い」
「いや、お待ち下さい、もう少し上ってみましょう、千隆寺の庭がここで眼の下に見えますから……」
 なるほど、この御行《おぎょう》の松の上へのぼると、呉竹《くれたけ》の根岸の里の寺々がよく見えます。
 円光寺も見える。正燈寺も見える。金杉の安楽寺までが、それぞれ相当に高い甍《いらか》を見せているが、めざす千隆寺の庭だけが、特に明るい。
 七兵衛が、夜分、遠めの利《き》く眼とはいえ、こうして、上から眺めたんでは、どこにどういう秘密が行われているか、わかるべきはずはない。多分、あの境内《けいだい》に忍び入るには、どの口から向ったのが有利か、それを研究しているのでしょう。
 一方、神尾主膳は、槍を片手に、一時は酔眼をみはって、松の上をながめていたが、やがて、酒乱の峠を越したのか、疲れてしまったのか、しきりに眠くなったと見えて、くずおれるように、松の幹によりかかってみたが、ついに支えきれず、根元へ倒れようとして起き直り、きっと足を踏みしめて、何か呟《つぶや》きながら、歩き出しました。
 どこへ行くのだろう。多分、屋敷へ引返すのだろうと、松の上から七兵衛は、足もとあぶなく、槍を力に、ふらふらと歩いて行く主膳の姿を、こころもとなく見返っていましたが、それも、まもなく、呉竹《くれたけ》の蔭なる小路《こうじ》に隠れて、見えずなりました。
 あとで、ゆっくりと、高見の見物で、千隆寺の境内を隈なく見おろしていた七兵衛。いいかげんの時刻に、ひとり合点《がてん》をして、その松を下りようとすると、例の呉竹の小路の間から、足音が聞えました。
 また思い出して、神尾主膳が戻って来たな、見つかっては面倒だと、いったん下りて来た七兵衛が、そのまま、松の茂みの間に身をひそめています。
 歩いて来たのは二人連れ。神尾主膳が戻って来たのでないことは確かだが、因果なことに、その二人が、御行《おぎょう》の松の根元へ来て、どっかと腰をおろしてしまったことです。
「時に時刻はどうだ」
「まだ少し早かろう」
 そのまだ少し早かろうという時間を、ここでつぶそうとするものらしい。
 七兵衛が苦《にが》い面《かお》をしました。どのみち、長い時間ではあるまいが、少なくとも、この連中が立退かない限り、この松の上からは下りられない。下なる二人は、かなり落着いて、しかし人を憚《はばか》っての話し声でありましたが、頭の上の七兵衛には、それが手に取るように聞き取れる。
「いったい、その立川流というのは、いつの頃、どこで起り出したものだろう」
「それは、今より八百年ほど昔、武蔵の国、立川というところで起ったのだが、その流行の勢いが烈しきにより、まもなく禁制となったにもかかわらず、ひそかに、その法を行うものが絶えなかったとのこと」
「ははあ、武蔵の立川が発祥地で、それから立川流という名が出たのか」
「それを、今時分、千隆寺の山師坊主がかつぎ出して、大分うまいことをしていたのが、今宵はその納め時」
というのが、七兵衛の耳に入りました。そうでなくても、その以前から七兵衛が気取《けど》ったのは、この二人の者は隠密《おんみつ》だ。与力か、同心か、その下の役か、よくわからないが、とにかく、物をいましめるために忍んで来た役向の者に相違ないと、早くも感づいてはいましたが、さてこそ、めざすところは、自分と同じことに千隆寺。そうして、どうやら、この寺へ、以前から目星をつけておいて、今夜は踏込んで、手入れをする手筈がきまっているらしい。
 それはわかったが、わからないのは立川流ということ。
 武蔵の国、立川というところは、七兵衛が江戸への往還の道だからよく知ってはいるが、そこから立川流というものが出たことは知らない。
 千隆寺の坊さんが、立川流という剣術をつかうわけでもあるまい。八百年前に起って、流行の猛烈にして弊害の甚だしきにより、禁制になったという流儀を、ここの坊主が行っているという。

         二十七

 立川流――の流れは、もう少し源が遠く、流れが深いはず。
 しかし、たぶん今ごろは、千隆寺の境内《けいだい》の八葉堂の地下の秘密室では、子を求むる婦人のために、問題の祈祷がはじまったものと覚しい。
 とにもかくにも、ここで、禁制の立川流を秘密に行って、男女を集めているという風聞は、もう、その筋の検挙の手を下すまでに拡がっているというのは、本当らしい。
 お絹という女の好奇心をそそって、今宵その秘密の修法《しゅほう》の席に連《つら》なることを許したはずの、この千隆寺の若い住職というのが、なかなかの曲者《くせもの》だ。
 さあ、いよいよその秘密の伏魔殿が発《あば》かれた日になって見ると、どんな怪我人が、どこから現われて来るか、この若い住職の素性《すじょう》もわかってくれば、その秘法に心酔して、夜な夜なつどう婦人連の顔が明るいところへ出された時、世間をあっ! といわせるかも知れない。
 七兵衛は、そんな事を考えている時、下では、呉竹の間や、稲垣の蔭や、藤棚の下や、不動堂の裏あたりから、黒い人影が幾つも、のこのこと出て来ては、松の幹の下の、以前に話し込んでいた二人の前に集まると、二人の者がいちいちそれに囁《ささや》いて差図をするらしい。差図を受けると集まって来たのが心得て、また闇の中に没入する。その人数|凡《およ》そ十余人を数えることができました。ははあ、いよいよあの人数が千隆寺へ手を入れるのだな――そうなると自分はどういう態度を取ったものか。まあ、もう少し高見の見物。いよいよ事がはじまってから、また取るべき手段方法もあろう、まず危うきに近寄らぬが勝ち。幸い、よき物見の松、と七兵衛は再びこの松に落ちつく心持。
 その時、さいぜんから控えていた二人の者が、やおら立ち上って、しめし合わせながら、闇に消えてしまいました。
 そこで七兵衛も思案して、松の樹を下りましたが、さてどこへどう飛び込んだか、闇の礫《つぶて》のようなもので影がわかりません。
 しかし、松の上で見定めておいた見当によって、千隆寺の境内へまぎれ込んだのは疑いもなく、八葉堂の燈籠《とうろう》の下で、ちらりと見せたのは、たしかに七兵衛の姿でした。
 いや、その前方《まえかた》、燈籠の蔭には、七兵衛でない他の者の姿も、ちらりと影を見せたことがあります。多分、例の隠密《おんみつ》でしょう。
 それから一時《いっとき》ほどし
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