、僧は俗より出で、俗よりも俗なり、ということをかねて知っていたからです。出家は人間の最上なるもの、王位を捨ててもそれを求むるものさえあるが、坊主の腐ったのときた日には、俗人の腐ったのより更に悪い、図々しくって、慾が深くって、理窟が達者で、弁口がうまくて、女が好きで……それを神尾主膳はよく心得ていたから、この際、堕落坊主をひとつ利用して、何か山を張ってみようと考えついたのです。
 そこで輪廓のうちへ、お絹の顔が、またボーッと浮んで来ました。
 女だわい――谷中《やなか》の延命院の坊主は、寺の内へ密会所を作って、身分ある婦人を多く引入れた。これは終《しま》いがまずかったが、もっと高尚な、巧妙な方法で大奥を動かして、権勢を握った坊主がいくらもある。
 坊主は、比較的に身分ある婦女子にちかより易《やす》い地位にもいるし、お寺参りをするのは、芝居茶屋へ通うよりは人目がよい。
 感応寺の「おみを」は十一代将軍の寵愛《ちょうあい》を蒙《こうむ》って多くの子を生んだ。そのおかげで感応寺は七堂伽藍《しちどうがらん》を建て、大勢の奥女中を犯していた。花園殿もその坊主にだまされて、身代りに女中が自害したこともある。
 神尾主膳は、そういうことの幾つもの例を手に取るように知っていたから、お絹の今の世間話が、その記憶を残らず蘇《よみがえ》らせて来たもので、それがこの際の謀叛気をそそのかしたものです。
 腹があって、融通がきいて、商売気のある坊主を見つけたいものだ。
 それは、さして難事ではあるまい。清僧を求めるにこそ骨も折れようが、左様な坊主は今時ザラにある――と神尾は、ひとりうなずいてみました。
 どういうつもりか、編笠をかぶって、忍びの体《てい》で、久しぶりで屋敷の中から市中へ向けて神尾が出かけたのは、その翌日のことです。
 昨日《きのう》話に聞いた上野広小路。そこへ立って人の肩から、そっとのぞくと、お絹の話した通り、旗幟《はたのぼり》を立てた坊さんが、物々しく、御本体不動尊の絵像を売っている。その口上も昨日聞いた通り……ただ、昨日の通りでないのが、一通り不動尊の絵像を売り出してから後、改めて、右の頭巾《ずきん》かぶりの坊さんが、その不動尊の絵像を買求めた者に、景品の意味で授ける安産のお守りの効能を、細かく説明していることです。
 右の坊さんは、怪しげな妊娠の原理から説き起して、この安産のお守りの功徳の莫大なることと、これによって、子無き婦人が、玉のような子供を挙げた実例を、雄弁で説いた上に、なお、希望の方は根岸の千隆寺というのへおいでになれば、われわれの師僧が秘法によって、子を求めんとする婦人のために、容易《たやす》く子を得る方法と、安産の加持《かじ》をして下さるということをいいました。
 ははあ根岸の千隆寺。これが近ごろ評判のそれか。自分の侘住居《わびずまい》と程遠いところではないはず。そこに近頃、安産のお守り、子無き婦人に子を授ける御祈祷が行われて、ずいぶん流行《はや》っているということが、侘住居の神尾主膳の耳へまでよく聞えていた。いろいろの副業を持っているお寺だな。その住職なるものは何者か知らないが、なかなかの遣手《やりて》と見える、ひとつあたってみようかな、というこころざしを起しました。
 しかし、今のところへその住職を招くのも嫌だし、自分が行って会見を求めるのも嫌だ、何か機会はないものかと考えているうちに、そうだそうだ、お絹をやることだ、あの女を子を求める子無き婦人に仕立てて……これは打ってつけの役者だわい、と神尾が思いつきました。

         二十六

 それから二三日すると、どういう相談がまとまったものか、お絹が装いを凝《こ》らして、程遠からぬ同じ根岸の千隆寺へ通いはじめました。
 水野若狭守《みずのわかさのかみ》内、神林某の妻という名義で、幸い、この寺の檀家《だんか》のうちにしかるべき紹介者があったものですから、寺でも待遇が違いました。その当座は多くの婦人の中に交わって、お絹も殊勝に護摩《ごま》の席に連なる。
 住職の僧が存外若いのに驚かされました。年配は神尾主膳と同格でしょう。美僧というほどではないが、色は少々浅黒いが、どこかに愛嬌があって、また食えないところもありそうです。
 で、左右の侍僧がたしか十余人。
 席はいつでもいっぱい。しかもそれが六分通りは婦人。あとの四分も、やはり婦人ではあるが、もう婦人の役を終った老婆連と、そのおともらしい男だけ。
 この若い住職は、印の結びぶりも鮮かだし、お経を読むのもなかなかの美声です。
 ともかく、何の信仰心もなしにやって来たお絹でさえも、その席へ連なっていると、悪い心持はしません。
 それはある日のこと、
「神林の奥様、お急ぎでなくば、今日は書院でお茶を一つ差上げたいと、御前《ごぜん》の言いつけでございます」
「それは有難うございます」
 護摩の席が終ったあとで、帰ろうとするお絹を、こういって番僧がひきとめたものですから、お絹が喜びました。
 書院に待たせられていると、ほどなく例の千隆寺の若い住職が、まばゆいほど紅《くれない》の法衣をそのままで、極めてくつろいだ面色《かおいろ》をして現われ、
「お待たせ致しました」
「先日は失礼致しました」
「いや、拙僧こそ。あの時は多忙にとりまぎれて、余儀なく失礼を仕《つかまつ》りました、今日はごゆるりと、お話を承りたいと存じます」
「はい……」
 お絹はどこまでも殊勝な面色《かおいろ》と、武家の奥様という品格を崩さないつもりで、身の上話をはじめました。
 この身の上話は、ここに通いはじめた最初から用意をして来たのですが、今日まで直接に住職に打明ける機会を与えられなかったものです。
「おはずかしい次第でございますが、わたくしが不束《ふつつか》なばっかりに、主人の心を慰めることができません、連添って十年にもなりますが、子というものが出来ませんので、夫婦の中の愛情に変りはございませんが、家名のことを考えますると……」
「御尤《ごもっと》もなこと」
「家名大事と思いまする夫は、妾《しょう》を置くことに心をきめまして、このことをわたくしに相談致しましたが、聞くところでは、夫はもう以前から、そうした女を他に置いてあるのだそうでございます。わたくしと致しましては、それに不服を申そうようはございませぬ、快く夫の申出でに同意を致しまして、妾を内へ入れるようにと申しましたが、それは夫が気兼ねを致しまして……」
 お絹はそこで、自分の苦しい立場を、言葉巧みに住職に訴えました。嫉妬ではないが、女のつとめが果せないために、夫の愛を他の女に分けてやらなければならない恨み。どんな方法によってでも、一人の子供を挙げることさえできたなら、死んでも恨みはないという繰言《くりごと》。それを細々《こまごま》と物語りました。
 聞き終った住職は、
「いや、いちいち御尤もなこと、左様な恨みを抱く婦人が世に多いことでござる。御信心浅からずとお見受け申すにより、八葉の秘法を修《しゅ》してお上げ申しましょう、丑《うし》の日の夜、これへお越し下さるように……」
 案外|無雑作《むぞうさ》に允許《いんきょ》を与えられたものですから、お絹がまた喜びました。この秘法は、授けるまでに人を吟味し、信心を試験することがかなり厳しいと聞いていたのに――
 丑の日の深更を選んで、子無き女のために、子を授くるの秘法が行われる、滅多な者には許さないが、信心浅からずと見極めのついた者にのみ、その修法《しゅほう》が許される。
 という住職の申渡しが、お絹をして、してやったりと心の中で舌を吐いて、うわべに拝むばかりに有難がらせ、あまたたび、住職に拝礼して、いそいそとして千隆寺から帰って来ました。
 一切を神尾主膳に報告して三日目、丑の日という日の夕方、お絹が念入りにお化粧をはじめると、神尾がその傍でニタニタと笑い、
「これからが土壇場《どたんば》だ」
と言いました。
「戦場へ乗込むようなものですわ」
 お絹は度胸を据えながらも、ワクワクしている。
「一人でやるのは心配だ」
と神尾がいいますと、
「お連れがあっては許されませぬ」
とお絹がいう。
 どうもこの女の心持では、秘密の修法を受けに行くおそれよりは、好奇心に駆《か》られている方が多いらしい。だから、取りようによっては、「いいえ、御心配には及びませぬ、わたしは願っても、そういうところへ一人で行ってみたいのですよ」といっているようです。
 今にはじまったことではないが、それが神尾には不満です。神尾でなくったって誰だって、こういう危険を好む女に安心をしてはいられない。今は計るところがあるのだからいいようなものの、もしこれが本当の女房であったらどうだろう。深夜の秘密の修法には、秘密の道場があるに相違ない。その秘密室に隠されたる秘密の罪悪。子をほしがるほどの女に、娘というのはないはずだから、みんな人の妻妾――その秘密が洩れないのは、受ける者が秘密を守るからだろう。
 神尾主膳はこの時、千隆寺の坊主が憎いと思いました。まして美僧でもあろうものなら、殺してやりたいとさえ思いました。
 千隆寺の坊主ども覚えていろ! 思わず血走って一方を睨《にら》んだ目は、酒乱のきざした時の眼と同じことです。
 それと知るや知らずや、お絹は悠々閑々《ゆうゆうかんかん》とお化粧をこらしながら、
「色は浅黒いが、ちょっと乙な坊さんですから、ことによると女の方が迷うかも知れません。しかし御安心なさいまし、こちらは役者がちがいますからね」
とお愛嬌のつもりでいったのが、はげしく神尾の神経に触れたようです。
 飲まない時は酒乱が起らない。酒乱のない限り、神尾は扱い易《やす》い男になっているが、この時はそうでない。飲まないで、そうして、酒乱の時と同じような眼のかがやきを現わして、ブルブルとふるえ、
「お絹!」
「え……」
「お前、今晩、千隆寺へ行くのを止《よ》せ」
「え、何ですか、千隆寺へ行くのは止せとおっしゃるのですか。止せとおっしゃるなら止しもしましょうが、わたしが好んで行きたがるわけじゃないはずです、どなたか、おたのみになったから、柄になくわたしがお芝居を打とうというんじゃありませんか」
 お絹も少しばかり気色ばみました。そのくせ、お化粧の手は少しも休めない。
「いや、止してもらいたい、止めにしてもらいたい」
 神尾はいよいよあせり気味で口早にいいますと、お絹は落着いたもので、
「駄々っ児のようなことをおっしゃったって仕方がありません、止すなら止すように初めから……」
 この時、神尾主膳は物につかれたように立ち上って、
「止せ!」
 お絹の向っていた鏡台に手をかけると、無惨《むざん》にそれをひっくり返してしまったから、
「あらあら」
 これにはお絹も怫《むっ》としました。
 けれどもこの時のは、酒に性根《しょうね》を奪われておりませんでしたから、いわば一時の癇癪《かんしゃく》です。神尾主膳はむらむらとした気分を鏡台に投げつけて、それをひっくり返しただけで、すっと自分の居間へ引上げてしまいました。
「なんて、乱暴でしょう」
 お絹も、さすがに、むらむらとしましたが、酒が手伝っていない以上は、結局、これだけで納まるものだと見くびりながら、倒れた鏡台を起し、
「いやになっちまう」
と言いながら、鏡台を引起して、ふたたび鏡台に向ったが、「じゃ、止《よ》そう、お寺へなんか行くのは止しちまおう、こちらから頼んだわけじゃあるまいし」とは言いません。鏡に向って以前よりは念入りにお化粧をやり直したのは、かえって、「行きますとも……行きますとも。ここまで乗りかけた舟に乗らないでいられるものですか。落ッこちる心配なんかありませんから御安心下さいよ」といっているようです。そうでしょう、落ちる心配はあるまい。落ちたところで、この女は溺《おぼ》れる気づかいのない女です。
 そうして丹念にお化粧を済ましたお絹は、根岸の里の夕闇を、さんざめかして程遠からぬ千隆寺へ乗込んだのは間もない時。
 神尾主膳が酒を飲み出した
前へ 次へ
全33ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング