て、千隆寺の境内八葉堂のあたりを中心として、沸くが如き喧騒が、根岸の里の平和を、すっかり破ってしまいました。
 火事か、火事ではない、強盗か、いいえ、盗賊でもないそうです。千隆寺へお手が入りました。
 ナニ、どうして? お寺で賭博《ばくち》があったのだそうです。そうですか、それはどうも。いいえ、そうではありません、人殺しの凶状持《きょうじょうも》ちが、あのお寺へ逃げ込んだのだそうです。それはこわい――やや遠方まで、人の胆《きも》を冷させたが、この際、自分の家の戸締りをかたくすればとて、出て見ようとする者はありません。
 八葉堂を中にした千隆寺の庭では、数多《あまた》の坊主どもが、法衣を剥《は》がれて、例の捕吏《とりて》の手に縛り上げられて、ころがされている。婦人たちが泣き叫んで逃げ迷うのを、これは、さほど手荒なことをしないが、一人も逃さず、本堂へ追い込んで見張りをつけて置く。
 なかには、闇にまぎれて裏手から、或いは垣根を越えて、やっと逃げ出したところを、待ち構えていた捕方につかまえられて、有無《うむ》をいわさず、境内へ投げ返された僧侶も、女もある。実際、蟻のはい出る隙間《すきま》もないほどに、手筈はととのっていたものらしい。
 さて、本尊の住職はどうした。その夜、はじめて入室を許されたお絹という女はどうした。これは、縛《いまし》めのうちに見えない。
 捕吏《とりて》たちは、血眼《ちまなこ》になって、住職をとたずね廻るけれども、ついにその姿を見出すことができないで、堂の壇上から裏の藪を越えて、稲荷《いなり》の祠《ほこら》の前まで、地下に抜け穴が出来ていたのを発見した時は、もう遅かったようです。
 これより先、七兵衛は早くも本堂の天井裏に身をひそませて、じっと下の様子を見おろしておりました。
 本堂の中では、お手前物の蝋燭《ろうそく》を盛んにともしつらねさせて、さながら白昼のような中に、引据えられた婦人たちを前に置いて、仮りに訊問の席を開いているのが、天井の七兵衛には、手に取るように見えます。
 しかし、恥と怖れとで、その婦人たちは、いずれも面《かお》を上げている者がありませんから、どのような身分の、どのような縹緻《きりょう》の婦人だか、それはわかりません。
 有合わせの床几《しょうぎ》に腰をかけて、その婦人たちを訊問している二人の侍。その声で覚えがあるが、これはさいぜん御行の松の下で話し合っていたそれに違いない。今は、白昼のような蝋燭の光で、ありありと二人の姿を見て取ることができます。
 その時、七兵衛が疑い出したのは、この役人は町奉行の手か、お寺のことだから寺社奉行の手か。それにしても二人の役人ぶりが少し訝《おか》しいと思いました。仮りにも一カ寺に手を入れるのに、もとより確たる証拠は握っているだろうが、夜陰こうして踏み込むのはあまりに荒っぽい。そう思って、二人の役人を見下ろすと、どうも役人らしくなくて、浪人臭い――ははあ、これは例の四国町あたりの出動かも知れないぞ、と七兵衛が胸を打ちました。
 なるほど、芝の三田の四国町の薩摩屋敷の浪人あたりのやりそうなことだ。てっきり、それに違いないわい。それなら、それで、こっちにも了簡《りょうけん》があると、七兵衛が天井裏でニッと笑いました。
 下では、そんなことは知らず、いちいち婦人たちに訊問をつづけているが、いずれも恥かしがって返事がはかばかしくない。
「その方たち、夫ある身でありながら、こうして夜陰、お籠《こも》りをすることを許されて来たか」
「夫も承知のことでございます、ただ子供がほしいばっかりに……」
と泣き伏してむせぶ者もあります。
「どうだ、祈祷の利《き》き目《め》はあるか」
「はい……」
「聞くところによれば、住職及び徒弟どもの身持ちがよくないとのことだ、何ぞ覚えがあるか」
「…………」
「これは何に用うる品だ」
 問題の役人が手に取って示したのは、畸形《きけい》な裸形《らぎょう》の男女を描いた、立川流の敷曼陀羅《しきまんだら》というのに似ている。
「お祈りの時の敷物でございます」
「ナニ、これを下へ敷いて、その上でお祈りをするのか」
「はい」
 怖る怖る返事をするたびに、七兵衛がその婦人たちの横顔をうかがうと、町家のお内儀《かみ》さんらしいのもあれば、武家出の女房もあるようだし、お妾《めかけ》さんらしいのもあるし、ことに意外なのは、妙齢の娘たちが幾人もいることです。これらの娘たち、何の意味で子供が欲しいのか、問題の役人にもわからないが、七兵衛にもわからない。
 ところで、当の本尊の住職の行方《ゆくえ》はどうなった、問題の役人にはそれが気がかり。来ていたはずのお絹がここには見えない、それが七兵衛の気がかり。そこへ駈けつけた捕吏があわただしく、
「秘密堂の壇の下に、抜け穴がありました」
「ははあ、その抜け穴が……」
 さてこそとこの連中が意気込んで、その抜け穴というのを検分に出かけたあとで、七兵衛はソロソロと天井裏を這《は》い出して破風《はふ》を抜け、いつか廊下の下へおり立って見ると、そこへあつらえたように置き据えられた朱塗の賽銭箱《さいせんばこ》。しかも背負い出せといわぬばかりに紐《ひも》までかけてある。
 それを一揺《ひとゆす》りしてみた七兵衛は、行きがけの駄賃としてはくっきょうのもの、抜からぬ面《かお》で背中に載せると、燈籠の闇にまぎれてしまう。
 ちょうど、それと前後して、御行《おぎょう》の松の下を走る二人の者。前に手を引いているのはお絹で、あとのは千隆寺の住職。二人とも跣足《はだし》。
 ほどなく、神尾主膳の屋敷の中へ再び姿を現わした七兵衛。
 その時分、主膳は前後も知らず眠っておりました。
 その一間へ悠々とお賽銭箱を卸《おろ》した七兵衛は、早くも用意の裸蝋燭《はだかろうそく》を燭台に立て、その下で一ぷく。やがて、賽銭箱の蓋《ふた》を取ってかき交ぜ、燭台を斜めにしてのぞいて見ると、これはありきたりのバラ銭とちがい、パッと眼を射る光は、たしかに一分判《いちぶばん》、南鐐《なんりょう》、丁銀《ちょうぎん》、豆板《まめいた》のたぐい。これは望外の儲《もう》け物。しかしありそうなことでもあると徐《おもむ》ろにその獲物《えもの》の勘定にとりかかろうとするところへ、裏手で篠竹《しのだけ》のさわぐ音。
 ははあ、帰って来たな、と思いました。
 さいぜん、七兵衛が天井裏で眺めていた婦人の中には、お絹の姿が見えなかったのが不思議だが、あの女のことだから、うまく擦《す》り抜けたのだろう。これはたしかにあの女が帰って来たのだな、と思ったから、急にいたずら心が起りました。
 一番おどかしてやろうかなという心持で、フッとその燭台の火を消してしまいました。
 果して、立戻って来て、裏の篠藪からソッと枝折戸《しおりど》をあけて、入り込んで来たのは、千隆寺の住職の手を引いて、跣足《はだし》で逃げて来たお絹。ホッと息をついて、
「お前様、これが、わたくしどもの控えでございます、もう御安心あそばせ」
「いや、おかげさまで助かりました」
 やがて二人は廊下を通りかかると、その一室で音がする。その音は異様な音で、まさしく銭勘定の音であります。金、銀、青銅の類を取交ぜて若干の金を積み、それをザラリザラリと数えては積み、数えては積んでいる物の音ですから、お絹が怪しみました。
 誰かこの座敷で金勘定をしているな――しかしこれは解《げ》せない。解せないのみならず、あるべからざることで、日頃、金がほしい、金がほしいと口に出しているのを、憎い狐狸《こり》どもが知って調戯《からか》いに来たのか。
 そう思うと、ゾッと気味が悪くなりました。
「お前様」
「はい」
「ちょっと様子を見て参りますから、これにお待ち下さいませ」
 お絹は住職をとどめておいて、こわごわとその室に近寄って見ますと、暗い中で、まさしくザラリザラリと銭勘定の音。
「誰?」
 お絹がとがめてみますと、
「私ですよ」
「え?」
「私でございます」
「何をしているのです」
「お銭《あし》の勘定をさせていただいているんでございますよ」
「お銭の勘定……人の家へ来て何だって、そんな無躾《ぶしつけ》なことをなさるんです、いったいお前は誰です」
「私だというのに、わかりませんか」
「わからないよ、声を立てて人を呼びますよ」
「いけません、いけません」
「では、早く出ておいで」
「お絹様、わたくしでございます、七兵衛ですよ」
「七兵衛さん……」
 お絹はあいた口がふさがりませんでした。
「いつ来たの、お前」
「三日ほど前に参りました」
「なんとか挨拶したらよかりそうなものじゃありませんか、だしぬけに人の家へ入って来て、銭勘定なんぞをはじめて」
「でも、これが商売だから仕方がありませんね。いま明りをつけますから、お待ち下さいまし」
と言って、七兵衛が先刻の裸蝋燭《はだかろうそく》へ火をつけた途端に、障子を開いたお絹が見ると、あたりはパッと金銭の小山。
「まあ――」
 お絹はまずその光に打たれてしまいました。

 その翌日になって、お絹から千隆寺の住職を、改めて神尾主膳に引合わせた時、おたがいに呆《あき》れ返って、
「やあ、君か」
という有様でありました。
 千隆寺の住職――その名を敏外《びんがい》――というこの男は、姓を足立といって、本所の林町で相当の旗本の家に生れ、不良少年時代には、主膳と肩を並べて、押歩いた仲間の一人でありました。
 そこで、ガラリと砕けて、お互いの打明け話になってみると、この敏外は、叔父が護国寺の僧で、それを縁故に仏道に入り、無理に坊主にさせられて今日に及んだということであります。
「君などは、坊主になってうまい商売をはじめたものだが、拙者の如きはこの通りの有様でウダツが上らない、何かしかるべき商売があらば世話をしてもらいたいものだ」
と神尾がいいますと、足立敏外和尚はまるい頭をなで、
「ふふん」
と笑いましたが、またつくづくと神尾主膳の面《かお》を見て、
「君のその眉間《みけん》はどうしたのだ」
「これか――」
 主膳は今更のように眉間の傷に手を当てて、
「ちっとばかり怪我をしたのだ、これあるがゆえに、この面《かお》が世間へ出せぬ」
「うむ、ちょうど、眼が三ツあるようだ」
「生れもつかぬ不具者《かたわもの》――」
といって主膳の面《かお》には憤怒《ふんぬ》の色が現われました。それは、いつもこの傷を恨むと共に、骨にきざむほど憎らしくなる思い出は、あのこま[#「こま」に傍点]ちゃくれた、口の達者な怖ろしいほど勘《かん》のいい弁信という小法師のことであります。あいつのためにこうまで、生涯拭えぬ傷を負[#「負」は底本では「追」]わされたと思い出すと、堪らない憎悪の念がいっぱいになるのであります。
「いや、その傷が物怪《もっけ》の幸いというものだ。我々の眼で見ると愛染明王《あいぜんみょうおう》の相《すがた》だ」
「ふふん」
と今度は主膳が冷笑しました。主膳の冷笑は、敏外のよりもすさまじさがある。しかし、敏外住職は存外まじめで、
「その竪《たて》の一眼は、愛染明王の淫眼といって、ことに意味深い表徴《しるし》になっている」
「ナニ、いんがん[#「いんがん」に傍点]」
「左様」
「どういう字を書くのだ」
「淫は富貴に淫するの淫の字――これは愛染明王が大貪著時代《だいどんじゃくじだい》の拭うても拭いきれない遺品《かたみ》だ。横の両眼は悪心降伏《あくしんごうぶく》の害毒削除の威力を示すが、竪の淫眼のみは、いつでも貪著と、染悪《せんお》と、醜劣と、汚辱《おじょく》とを覗いてやまぬものだ」
「ははあ……」
 神尾主膳は苦笑いしながら、何か当てつけられたように感じました。
 暫くしてこの二人は、久しぶりで一石《いっせき》囲むことになって、おたがいに多忙の心を盤の上に忘れてしまいます。
 当分は、この住職殿も、この屋敷の厄介になることだろう。

 一方、廊下の隅の一間には、裏宿の七兵衛がドッカとみこしを据《す》えてしまいました。
 いつも風のように来て
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