うして、威力が減じない程度に改良され得るだろうと思っています。ですからピストル――日本ではそういっていますが、やはりピストルですね、もとはイタリーの地名から出たので、短銃という意味はないのですが、将来はむしろ拳銃とでもいった方が適切になるでしょう――要するにピストルは、進歩するほど小さくなるのが原則であり、大砲は、いよいよ大きくなるのが進歩であります……大砲の工場をひとつ見て下さい」
 駒井は的板《まといた》の下に立てかけた小銃を取って先に立つと、白雲はピストルを持ちながら、的板の弾痕を調べて見ると、いずれも一寸の厚みある板を、無雑作にうちぬいていました。
 こうして二人はブラブラと小さい丘を上り、海岸の造船所に近いところに設けてある駒井甚三郎の鉄砲工場の方へ歩いて行きます。
 駒井甚三郎は、江川、高島の諸流を究《きわ》め、更に西洋の最新の知識を加えて、その道では権威者の随一でしたが、以前は幕府というものが後ろにあって、研究にも、実際にも、非常に便宜を与えられていましたが、今はそうはゆきません。
 工場といっても、ささやかなものではありますが、その道の鍛冶をつれて来たり、自身が素人《しろうと》を教育したりして、ともかく、十七間の船に備えるほどの大砲を修理する設備が整うているのであります。
「これはカノーネルの一種で、関口の大砲製造所で作らせたうちの一つを持って来て、修理を加えているのですが、海軍砲としては最小のもので、万一の際、これが一つ有ったからとて、大した力にはなるまいが、それでもないにはまさると思って工夫を加えています。近々出来上り次第、試射をやってみるつもりですから、田山さん、あなたもぜひ、それまで逗留《とうりゅう》して見て行って下さい……それから、あの船を動かす機関ですが、これは、やっぱり石川島造船所へ伝手《つて》があって払下げてもらった品に、自分相当の工夫を加えているのです。そうですね、大砲の方は近々……船の一切が整うは多分来年の四月頃になりましょう。その時はひとつ進水式をやりますから、また見に来て下さい」
「承知致しました、ぜひそれは見せていただきます。ただ見せていただくだけでは気が済みません……私も、その船の乗組の一人に加えていただけますまいか、どこへでもお伴《とも》を致しますよ」
「そうですか、あなたのような乗組員を得ることは、船のため仕合せですから、私の方から希望を致したいのですが、いかがです、あなたはよくても家族の方が……」
「左様……」
 そこで白雲が、家族のことを考えさせられました。この男とても、大空にただよう白雲の如く、行くも、とどまるも、自由には似ているが、自由ではないのが人間の原則です。
 浅草の露店の時に伴うていた妻子ある以上は、この人の帰りを待っているに相違ない。この人を柱とも杖ともたよっているに相違ない。
「それはなんとか始末をしておきますよ」
 こういう話をしながら、二人は海岸へ出ました。

         二十三

 武州大宮へ参拝した道庵先生は、それを初縁として、今後沿道の神社という神社には、少々は廻り道をしても参拝して行こうとの案を立てて、有無《うむ》をいわさず、米友にも同意をさせました。
 道庵が、こういう敬神思想を発揮するようになったのは、いつもの茶気とばかり見るわけにはゆかない。道庵も実はこのごろ、つくづくと考えさせられているのです。
 考えた結果は、どうしても日本国には、敬神思想を普及せしめなければならぬとの確信を得たものらしい。
 というのは、道庵も十八文で売り出したり、貧窮組のリーダー気取りになってみたり、またデモ倉や、プロ亀あたりとも交際をしてみたが、どうもあんまりたのもしい気がしない。
 デモ倉や、プロ亀ときては、新しい方へ頭をつっこんで、かなり鼻っぱしが強いかと思うと、風向き次第で、からっきし腰が据っていない。そのくせに人をおだてたり、あやつってみようとするケチな了簡《りょうけん》がある。そこで道庵が気がつきました。
 あいつらは平民の味方でも何でもないのだ。飯の種に新しいことを饒舌《しゃべ》り廻るだけで、たとえば大塩平八郎みたように、イザといえば、身を投げ出してかかる代物《しろもの》ではなく、佐藤|信淵《しんえん》のように、経済論から割り出そうという代物でもない。デモの調子のいい時はデモ、プロの風向きのよかりそうな時はプロ、つまり時の運気につれて飛び廻る蠅だ。あんな奴等の存在することは、本当の平民社会の信用を害し、その実際精神をさまたげ、かえって、人間に貴重な忍耐とか、奉公心とかいう方面の徳をすり減らすだけが能だ。
 本来、人間というものは、まだそう完全には出来ていないのだから、畏《おそ》れるところを、知ったり、知らしめたりして、つつましやかな徳を、持たせたり、持ったりしなければ、この社会が成り立つものでないということを、道庵先生がこのごろ思いつきました。
 といって、畏れというのは、サーベルや、鉄砲で脅《おどか》すことではない。権柄《けんぺい》ずくで人民を圧制することでもない。神ほとけを信仰して、畏れる心がほんとうに起らなければならないということに、道庵先生が気がつきました。
「べらぼう様、神様ほとけ様が無《ね》えなんというやつがあるものか、お天道様や水は誰がめぐんでくれたんだ、人間が神様をまつるのは、勿体《もってえ》ねえという心の現われなんだ、勿体ねえという心を持たねえ奴は物を粗末にする、物を粗末にする奴は人間を粗末にする、人間を粗末にする奴は国を粗末にする、国を粗末にする奴が、神様を粗末にするんだ」
 道庵一流の論法でおしきったはいいが、この案が通過すると共に、路傍の稲荷《いなり》や荒神様《こうじんさま》にまで、いちいち幣帛《へいはく》を奉って行くから、その手数のかかること。気の短い同行の米友がかなりの迷惑です。それでもいちいち道庵並みに、神という神にはみな拝礼を遂げて、武州|熊谷《くまがや》の宿へ入りました。
 ここでは規定の神社参拝のほかに、熊谷蓮生坊の菩提寺《ぼだいじ》なる熊谷寺《ゆうこくじ》に参詣をしようと、二人が町並を歩いて行くと、一つの芝居小屋がありました。
 おびただしく市川|某《なにがし》の幟《のぼり》を立てた芝居小屋の前を通ると、小屋の窓から首を出していた一人の気障《きざ》な男を道庵先生が見て、
「あれ……あれは水垂《みずたり》のげん[#「げん」に傍点]公様じゃねえか」
といって、ちょっと足を停めました。
 水垂のげん[#「げん」に傍点]公というのは、江戸ッ児気取りで、人を見ると二言目には百姓といいたがる気障な奴で、そうかといって、当人は芝居の台本を作るだけの頭はなく、劇評をするだけの腕もなく、演芸の風聞を聞きかじっては、与太を飛ばしたり、捏造《ねつぞう》をしたりして得意がっているが、それも旧式の下品な半畳で、とても今時の表へ出せる代物《しろもの》ではないが、ある大劇場に長くいた年功で、鼻ッぱしが強く、江戸ッ児をその鼻の先にかけているのですが、もし、勝海舟や栗本鋤雲《くりもとじょうん》あたりを江戸ッ児の粋《すい》なるものとすれば、この水垂《みずたり》のげん[#「げん」に傍点]公の如きは、下等な江戸ッ児の見本でしょう。その意味で道庵先生が知っているのです。
 大宮から上尾《あげお》へ二里――上尾から桶川《おけがわ》へ三十町――桶川から鴻《こう》の巣《す》へ一里三十町――鴻の巣から熊谷へ四里六町四十間。
 熊谷の宿《しゅく》を通りかかって、芝居小屋の前で、気障《きざ》な男の水垂のげん[#「げん」に傍点]公を見た道庵先生が、
「どうもいけねえ、昔はそれ、芝居に、なかなか見巧者《みごうしゃ》というやつがいて、役者がドジをやると半畳をうちこんだものだが……そいつが隙《すき》がなかったね、聞いていて胸の透くようなやつがあったくらいだから、役者にもピンと来て、悪くいわれてもはげみ[#「はげみ」に傍点]にならあな、舞台に活気も出て来れば、お客も喜ばあな、うちこむ当人も無論いい心持で、それを見得《みえ》にやって来るところが可愛いものさ。ところが今時の半畳屋と来た日にゃ、下等でお話にならねえ、時代が変っているのに頭がなくて、鼻っぱしだけがイヤに強く、人のイヤ[#「イヤ」に傍点]がるようなことをいえば、それで抉《えぐ》ったつもりでいる。あのげん[#「げん」に傍点]公様などがいいお手本さ、あの男の口癖が、二言目には百姓呼ばわりで、あれで江戸ッ児専売のつもりなんだから恐れ入る。なにもげん[#「げん」に傍点]公に恩も怨《うら》みもあるわけじゃねえが、あんな下等なのがおおどころにブラ下っていると、芝居道の進歩の邪魔になる、芝居の方も、も少し向上させなくっちゃいけねえね」
といいました。つまり先生の心持では、あらゆる方面に気を配って、それに親切を尽してやりたいところから、こういう半畳屋を憎む心になったのでしょう。悪く取ってはいけません。
「しかし、そういう下等な奴は下等な奴として、本当の江戸ッ児にはいいところがあるよ、本当の江戸ッ児にはどうして……」
といっているうちに、道庵先生が急に頤《おとがい》を解いて、米友を吃驚《びっくり》させるほどの声で笑い出しました、
「アハハハハハハハ」
「何だ、先生、何がおかしいんだい」
「米友様、あれ見ねえ、あの幟《のぼり》をよく見ねえな」
といって道庵先生が、芝居小屋の前に林立された役者の旗幟を指さしましたが、それをながめた米友には、別になんらの異状が認められません。どこの芝居小屋にもあるように、景気のよい色々の幟が、役者の名を大きく染め出して林立しているばかりです。
「う――ん」
といって、先生がおかしがるほどの理由を、その幟の中から見つけ出すことに、米友が苦しんでいると、
「アハハハハハハハ」
と道庵がわざとらしく、また大声で笑い、
「米友様、よくあの幟《のぼり》の文字をごらん、市川|海老蔵《えびぞう》――と誰が眼にも、ちょっとはそう読めるだろう。ちょっと見れば市川海老蔵だが、よくよく見ると、海老の老《び》という字が土《ど》になっていらあ。だから改めて読み直すと市川|海土蔵《えどぞう》だ、海土《えど》の土の字の下へ点を打ったりなんかしてごまかしていやがら。変だと思ったよ」
「そうかなあ」
 道庵にいわれて米友が、改めてその文字を読み直してみると、なるほど、海土蔵と書いて、海老蔵と読ませるようにごまかしてある。しかし、米友はごまかしてあったところで、ごまかしてなかったところで、道庵先生ほどにそれをおかしいとも悲しいとも思いません。
 というのはこの男は、まだ生れてから芝居というものを見たことのない男ですから、海老蔵が海土蔵であろうと、海土蔵が江戸ッ児であろうとも、大阪生れであろうとも、いっこう自分の頭には当り障りのないことですから、「そうかなあ」で済ましてしまいました。
 これには道庵も張合いがなく、さっさと歩き出して、テレ隠しに、一谷嫩軍記《いちのたにふたばぐんき》の浄瑠璃《じょうるり》を唸《うな》り出しました、
「夫の帰りの遅さよと、待つ間ほどなく熊谷《くまがい》の次郎|直実《なおざね》……」
 変な身ぶりまでして歩くほどに、やがて蓮生山熊谷寺《れんしょうざんゆうこくじ》の門前に着きました。
 道庵と米友は蓮生山熊谷寺に参詣して、熊谷次郎直実の木像だの、寺の宝物だのを見せてもらい、門前の茶店へ休んで、名物の熊谷団子を食べておりますと、そこへ若いのが四五人入り込んで来て、同じように熊谷団子を食べながら、威勢のいい話を始めました。
 それを道庵先生が聞くともなしに聞いていると、いずれも熊谷次郎に関する話で、なんでもこの若い人たちは演劇の作者連で、旧来の一谷嫩軍記《いちのたにふたばぐんき》では満足ができないから、直実に新解釈を下したものを書こうとして、わざわざここまで調べに来たものらしいのです。そこで道庵先生もその心がけに感心し、なお頻《しき》りに団子を食べながら若いものの話を聞いているうち、先生が早くも釣り込まれ
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