、人間が生きている! と腹のドン底から動かされたのは、その時です」
と言って白雲は、また行李の中をさぐって、別に一小冊子をとりだしつつ、
「駒井さん、あなたは日蓮をお読みになりましたか。日蓮をお読みになるならば、直接にその遺文集を読まなければなりません、後人の書いた伝記、注釈、すべて無用です。また騒々しいお会式《えしき》の太鼓の雑音の中で、凡僧の説教や、演劇の舞台や、土佐まがいのまずい絵巻物の中から、日蓮上人を見てはいけません。私が泊っていたところの居士が、私に日蓮上人の遺文集全部を貸してくれたものですから、幸いにそこで私は、生ける日蓮にお目にかかるの機縁を得たことを、感謝せずにはおられません」
「それは非常によいことです」
 駒井がそこへ言葉を挟んでいうことには、
「おそらく、あなたの今度の収穫中、それが第一のものでしょう。私もまだ日蓮の概念を知って、内容を知らないものです、あなたの日蓮観をお聞かせ下さい」
「よろしうございます。私は、ほとんど幾晩も徹夜して、この通り、遺文集全部の中から、書き抜いて持っております、日蓮を説明するには、やはり日蓮自身をして説明せしむるより、よきはなかろうと思います」
 白雲の取り出した小さな本は、今度のは絵ではありません。よき根気を以て書いた細字の、数百枚をとじた小本でありました。
「幸いに、拙者を泊めてくれた居士は、まだ世間に流布《るふ》されていない秘本をずいぶん持っていましたからね……『日蓮ハ日本国東夷東条安房ノ国海辺ノ旃陀羅《せんだら》ガ子ナリ!』これは佐渡御勘気鈔《さどごかんきしょう》という本のうちにあるのです。『イカニ況《いはん》ヤ、日蓮|今生《こんじやう》ニハ貧窮下賤《ひんぐうげせん》ノ者ト生レ旃陀羅ガ家ヨリ出タリ。心コソ少シ法華経ヲ信ジタル様ナレドモ、身ハ人身ニ似テ畜身ナリ……』と、これが日蓮自身の名乗りなのです。この名乗りを真向《まっこう》にかざして、一世を敵にして戦いをいどみました。日本という国は、幸か不幸か系図を貴ぶ国柄で、たとえば征夷大将軍になるには、どうしても源氏の系統をこしらえなければならず、たまたま土民の中、乞丐《きっかい》の間から木下藤吉郎のような大物が生れ出でても、その系図の粉飾には苦心惨憺したものです。人間をかざるものが主となって、人間そのものが従になるのです。ですから後光《ごこう》と肩書があって初めて人間が光るので、人間そのものの本質を、泥土の中から光らせるという本当の人間がありません……そこへ行くと日蓮は巨人です、日蓮にもったい[#「もったい」に傍点]らしい系図書をくっつけたのは、みな後人の仕事で、日蓮自身の遺文のどこを読んでみても、おれの先祖は誰々だと誇張したところは一カ所もないのです。私は、小湊《こみなと》、荒海《あらみ》、天津《あまつ》、妙《たえ》の浦《うら》あたりの浜辺に遊んでいる真黒なはなたらしの漁師の子供を見るたびに、聖日蓮ここにありと、いくたび感激の涙をこぼしたか知れません。万代不朽の精神界の仕事をする人にとっては、徹底的の卑賤の出身が、どのくらい幸福であるか知れないということを、特に日蓮において、私は衷心《ちゅうしん》にきざまれました……徹底的のところには、すべての人間相が、少しも姿を隠さずに、眼前に現われて来ます、誰も荒海の漁師の子に、阿媚《あび》と諂佞《てんねい》を捧げるものはありません、真実は真実として、虚偽は虚偽として、人間相そのままが、人間を教育してくれるのです」
 そこへ金椎《キンツイ》が日本のお茶を持って来ました。
 お茶を置いて金椎が、丁寧なお辞儀をして出て行ってしまうと、駒井甚三郎は、そのお茶を白雲にすすめ、自分もすすって、
「今の少年が、あれで熱心な切支丹《きりしたん》の信者なのです、イエス・キリストの……」
と言いますと、
「ははあ」
 熱している面《かお》をさましながら白雲は、気のあるような、ないような返事。
「あれの語るところによると、イエス・キリストも、また、微賤なる大工の子の出身だといっています、そうしてキリストが、世界の歴史を両分し、人間の心を支配しているのだというようなことをいっています」
「ははあ」
 白雲は再び、気のあるような、ないような返事でしたが、急に思い立ったように、
「そうです、そうです。私はキリストのことをよく知りませんけれど、なんにしても西洋の数千年来の文明を指導して来たのですから、そのくらいの抱負はありましょう。日蓮も言っています、『我レ日本ノ柱トナラム。我レ日本ノ眼目トナラム。我レ日本ノ大船トナラム――』これは開目鈔《かいもくしょう》のうちにあります。『日蓮ハ日本国ノ棟梁《とうりよう》ナリ、予《われ》ヲ失フハ日本国ノ柱幢《はしら》ヲ倒スナリ――』これは撰時鈔《せんじしょう》――」
 白雲は再び小冊子をくりひろげて、いちいち書抜きを指点しながら、
「ともかく、こういう真実性を持った巨人が現われて来ますと、凡俗は驚きますよ。人間が生きている! というわれわれの無邪気なる驚異で済まされないのは、その立場をおびやかされやしないかという小人ばらの恐怖です。多年、糊で固めておいた自分たちの立場が、この巨人のために一息で吹き飛ばされては大変だ。そこで狼狽《ろうばい》がはじまります、そこで小人が巨人を殺しにかかります」
「どうも困りものですね、巨人も小人も、共に生きてゆくわけにはゆきませんか」
 駒井が浩嘆《こうたん》すると白雲が、
「それをするには巨人が韜晦《とうかい》して隠れるよりほかはありません……ところが日蓮においては、それが反対で、巨人自身があくまで戦闘的に出でたのですからね、たまりません……しかし、この巨人は、秀吉のように、家康のように、武力を持っているわけでもなんでもなく、前に申す通り旃陀羅《せんだら》の子ですからな、ほんとうに素裸《すっぱだか》です。しかるに敵はあらゆる武器を利用することができます」
といって白雲はお茶を飲みました。そうして嘯《うそぶ》くように気を吐いて、外をながめると、ちょうど窓の開いてあったところから、かぎりもない外洋の一部が眼に入って、そこから心地よい海の風の吹いて来るのを感じました。
「これは日蓮自身もいっています――世には王に悪《にく》まるれば民に悪まれない、僧に悪まれる時は俗に味方がある、男に悪まれても女には好まれ、愚痴の人が悪めば智人が愛するといったふうに、どちらかに味方があるものだが、日蓮のように、すべて悪《にく》まれる者は、前代未聞にして後代にあるべしともおぼえず……生年三十二より今年五十四に至るまで、二十余年の間、或いは寺を追い出され、或いは所を追われ、或いは親類を煩《わずら》わされ、或いは夜打ちにあい、或いは合戦にあい、或いは悪口《あっこう》かずを知らず、或いは打たれ、或いは手を負う、或いは弟子を殺され、或いは首を切られんとし、或いは流罪《るざい》両度に及べり、二十余年が間、一時片時も心安き事なし――『日本国ハ皆日蓮ガ敵トナルベシ――恐レテ是ヲ云ハズンバ、地獄ニ落チテ閻魔《えんま》ノ責ヲバ如何《いかん》セン――』これですから堪りません、悪《にく》まれます――しかし、駒井さん、薄っぺらの、雷同の、人気取りの、おたいこ持ちの、日和見《ひよりみ》の、風吹き次第の、小股すくいの、あやつりの、小人雑輩の、紛々擾々《ふんぷんじょうじょう》たる中へ、これだけの悪まれ者を産み出した安房の国の海は光栄です。今でも小湊の浜辺に立ってごらんなさい、われは日本の柱なりという声を聞かずにおられませんよ」

         二十二

 田山白雲は、ここに当分足をとどめることになって、駒井の造船所を見たり、附近の名所をさぐったり、或いは一室にこもって、駒井のために何か一筆をかき残して置くといっていました。
 白雲の給仕役は例の金椎《キンツイ》です。まもなく白雲と金椎とは心安くなりました。
 今日は白雲が一室にこもって、長い筆をふるいながら絵をかいている。絵をかきながら鼻唄をうたっている。
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ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
南条|長田《おさだ》へ魚《とと》買いに……
[#ここで字下げ終わり]
 そこへ不意に駒井甚三郎が入って来て、
「田山氏、鉄砲の試験をするから、見に行かないか」
 駒井はこの頃、小銃の製造に苦心していたが、それが出来上ったと見えて、白雲に同行をうながすと、
「お伴《とも》しましょう」
 白雲は直ちに絵筆をなげうちました。
 駒井は軽装かいがいしく、一挺の鉄砲と弾薬を用意して出かけると、白雲は例の駒井から借着の筒袖のつんつるてんで、そのあとについて行きます。
「駒井さん、僕はこういう岩畳《がんじょう》な身体《からだ》をして美人を描いているのに、あんたは虫も殺さないような顔をしていながら、殺生《せっしょう》な武器を作るのですね」
と白雲が言いますと、駒井が、
「なるほど、そういわれればそうですね」
 ほどなく馬場のようなところへ来て見ると、射撃の練習は今にはじまったことではないと見えて、場の一方に的《まと》が幾つもかけてありました。
 ここで駒井が三十間、五十間、百間と位置をかえて鉄砲を打つのを、田山白雲が見て感心しました。
「なるほど、商売商売だ」
 小さな厚紙の的をかけて置いては、それを、パチリパチリとうちおとしてゆく駒井の手腕は鮮かなもので、全く風采《ふうさい》に似合わないはなれ業《わざ》であると感心しないわけにゆきません。ことにこの鉄砲そのものが自分の手で作られ、英国製のスナイドルというのを分解して、それに自分の意匠を加えたものだと聞いては、舌をまかずにはいられません。
 すべて人は、自分の持っていない知識経験には、ことに驚嘆し易《やす》いもので、その驚嘆から、嫉妬も起れば、尊敬も湧くものでありますが、田山白雲が、駒井甚三郎に大なる敬意を持ったのは、この鉄砲の手腕から起りました。
「着弾距離はどのくらいですか」
「左様、これは六百間までは有効のつもりですが……」
「従来のものとの比較はどうですか」
「それは着弾距離において、三分の一以上はすぐれているでしょう、しかし、特長はこの元込《もとご》めにあるのです、これがもう少し思うようになると、日本の戦争が一変します」
「なるほど」
 白雲は銃を駒井の手から借受けて、つくづくとながめて感心をつづけていると、駒井は、ただいま船に据《す》えつける大砲を工夫中であるから、出来上ったら海上へ向けて試射をするから、見て下さいといいました。うちみたところ、瀟洒《しょうしゃ》たる貴公子であるこの人が、なかなか恐ろしい武器の製造者であることを、白雲はいよいよ驚いていると、
「短銃を一つ試験してみましょうか。西洋のピストルです、日本の懐鉄砲《ふところでっぽう》というやつですね」
といって駒井は懐中へ手を入れて、革袋の中から取り出したのが、コルト式の五連発であります。この人は常にこれを懐中にたくわえているらしい。そうしてズンズン的場《まとば》の板のところへ進んで行って、白墨で粗末な人形を一つかいて置いて、十歩の距離に立戻り、
「あの眼をうってみましょうか」
 無雑作《むぞうさ》に切って放った一発が、まさに人形の眼に当りました。
 駒井甚三郎は五連発のピストルを三発打って、あとの二発を白雲に打たせました。そうしていうことには、
「これは今、日本へ渡っている短銃のうちでは最新式のものですが、西洋ではその後、どんな進歩したものが発明されているかわかりません。私の考えでも、いちいちこうして使用したあとで、ケースを抜き取って弾薬を詰めかえる手数が、もう少しなんとかならないかと思います。それと、もう少し形を小さくし、量を軽くしたいものだと思います。その方針で研究していますから、そのうち相当の改良を加えてみるつもりです。今のところは、この小銃と大砲の方へ力を注いでいるものですから、これで満足しているほかはありませんが、これはゆくゆく、てのひらの中へ握り切れるほどの小さなものにして、そ
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