気分で、どうかしてその尖《とんが》った貧相なものにしてしまいたがる……一方はまた、美と不美とは論外に置くも、ともかくもあの特有の力は表現させてもらわなければならぬ、しかるにこの絵には少しもそれが現われていない、しかしそれが無理な註文ならば、誰にも合点《がてん》されそうな、あたりまえの人相にかいた方が無事だろうと、こういうのだ」
「論より証拠じゃないか、お前は塩尻峠で何を見ていた」
「お前こそ何を見ていた」
その時、通りかかった濠端《ほりばた》で、人が集まって大騒ぎ。二人は話をやめて、
「何だ」
「ええ、狂犬《やまいぬ》でございます」
「狂犬が、どうしたのだ」
「今、若いお侍が、狂犬を取って投げました、上の方へ遥かに飛んで、松の枝をかすめて、犬がお濠の真中へ落っこちたところであります」
「なあんだ」
何事かと思えば犬一匹のこと。仏頂寺弥助が冷笑して過ぎて行くところへ、いったん、沈んだ狂犬《やまいぬ》が浮き上って、岸の方へ泳いで来るから、
「それ、狂犬がまた出て来たぞ、浮み上ったぞ」
人だかりは八方へ散ると、血迷いきった狂犬は、仏頂寺と丸山をめがけて飛びかかったのを、仏頂寺が、
「ええ、畜生」
一旦、蹴飛ばしておいて、次に踏み殺してしまいました。
二十
この二人が甲府の市中を進んで行くうちに、例のヘラヘラ役者の、覆面辻斬の絵看板の辻々に掲げられたのを見ると、仏頂寺が、
「この奴等、いいかげんにしないと、目に物見せてくれるぞ」
と、ちょっと凄《すご》いことを言いました。目に物見せてくれるといったところで、何といっても仏頂寺ほどの者が、ヘラヘラ役者を相手に、本式の立廻りを見せようというわけでもあるまい。何かの機会を見て、懲《こ》らしめのために、かたわ者にしてやるくらいが落ちでしょう。
やがて、この二人が、柳町の佐野屋という宿へ着いたので、幸か不幸か、そこでバッタリ[#「バッタリ」に傍点]と落合ったのが宇津木兵馬です。兵馬も、この宿に泊っていて、もう少し先に立帰ったところでありました。
勢い、バッタリと出会《であ》わないわけにはゆきません。出逢《であ》って見れば、一方、仏頂寺は、兵馬が修行時代に道場へ往来して、幾度も竹刀《しない》を合わせたことがあり、丸山勇仙は、十津川の時に藤堂勢に従って、書記みたような役目をつとめ、兵馬のために人相書をかいてやったこともある見知合いのなかです。
「やあ、珍しい、宇津木兵馬君、君はここに泊っていたのか」
兵馬も、逢いたくもない相手だと思いましたが、のがれるわけにはゆきません。
「これは仏頂寺、丸山の両君」
「君の座敷はどこだ」
仏頂寺、丸山の両人は、ほどなく兵馬の座敷へ押しかけて来ました。
兵馬はお銀様を憚《はばか》って、次の座敷へうつしておいて、やむを得ず火鉢をすすめ、この二人に応対すると、
「宇津木君、拙者は机竜之助に出逢ったぞ、しかも最近に――」
「え」
その言葉は、両様の意味で兵馬を驚かせました。その一つは、多年の敵《かたき》の消息。他の一つは、それを無遠慮に別室のお銀様に聞かせたくないとの心配。仏頂寺と丸山とは、そんなことに頓着なく、兵馬のために吉報をもたらしたつもりで得意になって、
「ついこの間、計らずもあの男に信州の塩尻峠の上で会ったのだが、その時は、それと気づかず、たった今、あれだなと思い出したようなわけだから、無論、おたがいに名乗りもせず、あの男の行先とても聞いてはおかなかったのを残念に心得ている。ところがここで、君に出逢ったのが勿怪《もっけ》の幸いとなった、われわれとても別段急ぐという旅ではないから、これから君と共に引返そう、引返してあの男のあとを慕ってみようではないか。君にとっては不倶戴天《ふぐたいてん》の敵、われわれも、もう一応、会っておかなければならないのだ、共に願ったりかなったりの好都合ではないか。かれはいま眼が見えぬ、眼は見えないが、その太刀先《たちさき》は少しも衰えない、次第によっては、われわれが君のため、後見の役目をつとめてもよろしい、ずいぶん、油断すべき相手ではない」
案の如く、お銀様に聞かせたくないことを、この男はズバリズバリとしゃべってしまったのみならず、ひとり呑込みで同行をとりきめ、まかりまちがえば、助太刀の役まで引受ける気取りでいる。これは兵馬にとって容易ならぬ有難迷惑だけれども、相手が相手、ことにこう乗り気になっている際では、いやといっても付いて来るに相違ない。そこでいやでもおうでも明日からは当分、この連中と道づれにならなければならぬ運命となる。
自分は、いいとしても、お銀様が、それは忌《いや》がるにきまっている。そこで兵馬は咄嗟《とっさ》の間《かん》にこう言いました。
「御両君の好意を有難く存じます、おかげで敵《かたき》の手がかりがついて、こんな喜ばしいことはござらぬ。ついては仰せの通り明日早々、御両君の同行を願ってここを出立したいのでござるが、ちょうど、自分はたのまれて、さるところまで人を送り届けねばならぬ責任があるゆえに、一日おくれて……」
途中しかるべきところで落合おうということを申し出しました。
やがて二人が帰ってしまうと、静かにお銀様が次の座敷から出て来て、
「宇津木さん、わたしの尋ねて行く人は、あなたの仇《かたき》でしたね」
「そうです」
聞かれてしまっては仕方がない、兵馬は苦しげに白状しました。
「なんという因縁《いんねん》の戯《たわむ》れでしょうね」
「そうですね、全くなんともいえない忌《いや》な因縁になりました」
「わたしは好きな人を探しに行く、あなたは、どうでも、その人を殺さなければならないのですね」
「その通りです、彼を討たんがために、わたくしはこの年月を苦心致しました」
「けれども、わたしは、またあの人がなければ、生きていられないのですよ」
「私はまた、彼をそのままで置いては、男子の面目が立たぬのです」
「そうして、明日からの旅はどうなさるつもり?」
これは兵馬が、お銀様に先《せん》を越されました。
「お聞きの通りです、拙者は、あの人たちと行《こう》を共にしなければなりませぬ、辞退しても聞く人たちでありませぬ。そこであなたの御迷惑を考えて、その御相談を致そうと思っていたところなのです」
「どうしても、わたしが邪魔になりましょうね」
「いいえ……私は、あなたのお心任せにするつもりでいます、場合によっては、あの者共の同行をもことわるつもりです」
「どちらにしても結果は同じことですね、わたしはあの人を取りに行く、兵馬さんはあの人を殺しに行く……全く別な目的の二人が、今まで連れ合って歩いていたのです。つまり、あなたとわたくしとは、敵同士《かたきどうし》の間でありました」
「いや、拙者は、ほかの人を怨《うら》むというべき理由を持ちませぬ……あの嫂《あによめ》でさえも……」
と、兵馬はおとなしく言いました。
「それでも、わたしは、あの人を愛します、自然、あの人の立場を危なくする者があれば、力を極めてそれを妨げるのが、わたしの仕事ではありませんか。どうしても、あなたとわたくしとは敵同士です。宇津木さん、あなたがわたくしを邪魔にしなければ、わたくしの方で、あなたを邪魔にしますよ」
「それは御随意に任せるよりほかはありません」
「わかりましたか。それでは、もうあなたとの一緒の旅は今日限り、わたくしの方からお断わりを致しましょう。そうして、これから後はおたがいに敵同士です」
「いいえ……敵《かたき》という言葉は、そう軽々しく用いるものではありますまい」
「でも、わたくしは、生ぬるいことが嫌い、この世の人は敵《てき》でなければ味方、味方でない者はみんな敵です」
「ああ、あなたの考えは偏《へん》し過ぎている、片意地過ぎているようです。拙者は机竜之助を敵《てき》とはするが、あなたを敵とする気にはなれないのです」
「わたくしは、そうではありません、味方でないものはみんな敵です……兵馬さん、お前が机竜之助を討とうとすれば、わたしはあの人の味方ですから、あなたを殺してしまいます」
「よろしい、そのお覚悟なら、それでよろしうございます、拙者もこれから、あなたを敵《かたき》の片われと見ましょう」
「それがよろしうございます。わたしはここで、人をよんで座敷を改めてもらいます、あなたにもお世話になりましたが、どうぞ、お大切《だいじ》に……」
と言って、お銀様は手を鳴らして女中を呼び、更に番頭を呼んでもらって、自分だけ座敷を改めることをたのむと、さっさと、自分のものだけを運ばせて引移ってしまいました。
兵馬はお銀様の片意地に驚きました。けれどもお銀様を片意地の気質にさせた原因を知っているものですから、いい出した以上は、その意に任せるよりほかは仕方がないとあきらめました。
さて、こうなってみると、有力な後援者を失った自分は、また貧寒なる一人旅のさすらいだ。しかし、もう今度こそは、相手が塩尻峠を越したことを、歴然とつかんでいる。あの峠を越した以上は、その行先こそしかとわからないとはいい条、袋の鼠のようなものである。今度こそ――という目あてがついたようなものですから、旅嚢《りょのう》の欠乏も、さのみ気にはかかりません。むしろ、ここでお銀様の方から去ってしまったことが、身軽でよいくらいのものです。
そこで思い出して、預かっていた胴巻の金のすべてを取り出し、女中を呼んで、これをお銀様のもとへ届けさせますと、お銀様から突き戻して来て、
「そんなものは知らない」
と言ったとの返事。それではいけないと兵馬は自身|携《たずさ》えて行って渡すと、お銀様は、
「そうですか、確かにお受取り致しました」
素直《すなお》にそれを受入れたから、兵馬はそのまま帰って来ました。
そのあとで、今度はお銀様が改めて女中を呼んで、こういうことをたのみました、
「あの、さいぜんお泊りになった二人づれのお客様で、お一人はたしか仏頂寺様、も一人のお方は丸山様とかおっしゃいましたが、その方に、わたくしが内緒で、ちょっとお目にかかりたいのですが、伺ってよろしうござんすかどうか、お聞き申してみて下さい」
女中は、そのたのみを心得て立去ろうとするのを、お銀様がまた呼びとめて、
「それから、お伺いしてよろしければ、まことに失礼でございますが、怪我を致しておるものですから、これをかぶったまま失礼を致したいが、このことをお聞き入れ下さるように申し上げておいて下さい」
と念を入れてたのみました。
仏頂寺と丸山は、見知らない婦人の人が面会をしたいとの申入れを聞いて、不思議に思いました。けれども、辞退するガラでもないから、直《ただ》ちに承知の旨を答えると、そこへお銀様がやって来て、
「御免下さいませ、さきほど、使を以てお願いに上らせましたのを、お聞届け下されて有難う存じます、その節、併せてお願いを致しました通り、少々怪我を致しておるものでございますゆえ、このままで失礼を、おゆるし下さいますように」
見れば品のよい令嬢姿の女が、顔にはお高祖頭巾《こそずきん》をかぶったままでの、しとやかな挨拶です。二人は一議にも及ばず、
「いかなる御用か存ぜねども、まずこれへお通り下さるよう」
火鉢の間を分けて、お銀様を招じました。そこでお銀様が二人に向っての頼みというのは、こうです。
自分は宇津木兵馬の連れの者であるが、兵馬は机竜之助を敵《かたき》と狙《ねら》っていること御存じの通り。自分としては、そのいずれをも傷つけたくない心持であること。
ついては、あなた方のお計らいで、どうか二人を近づけないようにしていただきたい。自分としては、どちらが傷ついてもいやである。しかし、二人は近づかねばならぬ運命が迫っている。近づけばいずれかが傷つくか、両方が倒れる。それをさせないのは、一《いつ》にあなた方の方寸である。どうか、あなた方の計らいで、宇津木兵馬を机竜之助のそばへ寄せないようにして下さるわけにはゆくまいか。結局これが私の願いでもあり、おたがいのためでもある……という
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