殺すといいましたか」
「いえ、いえ、そういうわけじゃありませんけれど、盲目《めくら》でいながら、ああして刀をそばへ引きつけておく人には、油断がなりません」
「お前、何かあの方に失礼なことをいって、脅《おど》かされたんじゃないの……」
「いえ、いえ、決してそういうわけじゃございません、おかみさんのお身を心配するあまり、ついよけいなことを申し上げました」
「付合ってごらん、あれで、なかなか苦労人で、世間を見ておいでなさるから。ポツリポツリ話してゆくうちに、だんだん味が出て来るようなお方ですよ、こわいこともなにもありゃしません」
「ですけれども、おかみさん……私が可愛いと思うなら、私に心配をさせないで下さい。ね、私は、いつおかみさんが、あの人に斬られるか……それを思うとヒヤヒヤしつづけですから」
「ほんとうにお前は意気地のない人だ……さあ一つお上りよ」
後家さんは、炬燵《こたつ》の上の杯を取って男妾に与えました。
そこへお雪が廊下の外からやって来て、
「おばさん」
「はい、お雪さん、お入りなさい」
と言って、炬燵の上の酒の器《うつわ》だけを下へおろしてしまいますと、お雪は、
「さきほどは有難うございました、お邪魔をしてもようございますか」
「よいどころじゃございません、さあ、お入りなさいまし」
「御免下さい」
お雪が入って来ると、後家さんは炬燵の一方へ座蒲団《ざぶとん》を出して、ついでに茶棚の上の蕎麦饅頭《そばまんじゅう》のお盆を炬燵の上へ置きました。つまり、お雪が入って来たために、酒と蕎麦饅頭とが炬燵の上で交迭《こうてつ》した結果になりました。
「一つおつまみなさいな」
「どうも御馳走さま」
三人が炬燵を囲んで世間話がはじまると、やがて先日の木曾踊りのことになり、
「おばさん、まだ、わたしあの歌がよく覚えきれませんから、教えて頂戴な」
後家さんは喜んでお雪に向って、例の「心細いよ、木曾路の旅は、笠に木の葉が舞いかかる」という歌の文句からはじめて、合《あい》の手《て》までも教え、はては自分が得意になって、かなりの美音でうたい出しましたから、一座もなんとなく陽気になってきました。
歌を教えてしまうと、後家さんは、
「踊りはこの人が上手だから、教えておもらいなさい」
と男妾《おとこめかけ》の浅吉を指さしました。
「どうぞ、教えて下さい」
とお雪も、それに合わせて浅吉にたのむと、
「どう致しまして、私なんぞ……」
浅吉がハニかむのを、後家さんは叱るように、
「教えてお上げなさいよ」
「どうぞ、おたのみ致します」
お雪も面白半分に、浅吉にたのむものですから、浅吉がいよいよ迷惑がり、
「いいえ、ダメですよ」
「そんなことをいわずに踊って見せてお上げなさい……ねえ、お雪さん、あなたも、ただ教わっちゃ駄目よ、一緒に立って、手を取って教えてもらわなくちゃ」
「いいえ、わたしは見せて教えていただけば覚えますから」
「そんなズルいことをいって駄目よ、教わるのに横着をしちゃいけません」
「だって、できもしないのに、きまりが悪いんですもの……」
「ナニ、きまりが悪いことがあるもんですか、若い同志で充分に踊りなさい、わたしが、ここで歌いますから……」
後家さんがこう言って、二人を立たせようとしたけれども、浅吉はいよいよハニかんで立とうとはせず、お雪も無論手を取ってまで、教えてもらおうとは思いません。
そこで、木曾踊りの実演は中止の形となりましたが、
「若い人は、遠慮があるからいやよ」
と言って後家さんが急に立ち上って、廊下へ出ました。浅吉と二人ばかりあとに残されてみると、急に座敷がテレてしまって、なるほど、あの陽気な人が一人いるといないでは、こうも違うものかと思わせられるくらいです。
それでも、お雪は急に暇乞《いとまご》いをして立ち出でるわけにもゆかずに、後家さんの戻るのを待っていたが、その戻るのが意外に手間取《てまど》れるので、もどかしく思いました。多分お手水《ちょうず》にでも行ったのだろうが、それにしては長過ぎるとお雪が待ちあぐむ頃には、浅吉が落着かなくなって、しきりに気を揉んでいる様子が、ありありと見えますから、お雪は、
「おばさん、どうしたんでしょう、帰りが遅い」
いらいらしていた男妾の浅吉は、やがて声を低くして、
「お嬢さん――」
と、お雪のことを呼びました。
「はい」
お雪は、この男にも同情を持っているのです。同情というものは、広い意味の同情で、同情の中に異性の思いやりを含むという次第では無論ありません。いわばお雪は誰に対しても親切な娘であります。
「あなたのお連れのあのお方は、あれはお兄さんですか……」
「いいえ、兄ではありません、親類の……」
とお雪が煮えきらない返事をしました。
「お目が悪いんですね」
と言いますと、
「ええ、煙硝《えんしょう》の煙で、お目を悪くしてしまったのだそうですよ」
「それはいけません」
「どういうわけですか、わたしもよくは聞きませんでした」
二人がボツリボツリとこんな問答をしている間も、席を外《はず》した後家さんは戻って来ません。いったい、どこへ何しに行ったのだ。お雪もようやくもどかしくなりました。
「どうしたんでしょう、おばさん帰りが遅いですね、わたし、お暇致しましょう」
お雪も、若い男と二人さしむかいでは気が置けると見えて、帰ろうとすると、
「まあ、いいじゃございませんか、お話しなさいまし、もうすぐ帰りますよ」
「それでも……では出直して参りましょう」
「いいえ、よろしうございますよ。それからお嬢さん、まだ本がいくらもございますから、お持ち下さいまし」
「そうですか、それではあとでお借り申しに上りましょう、御免下さいまし」
と、そこそこにお暇乞いをしてお雪は帰りますと、まもなく、自分の廊下のところに立ち止まりました。
その中でヒソヒソと話し声が聞えたからです。はて、久助さんは下で煙草切りをしているはず。あとは先生一人でいたはず。そこでヒソヒソと話し声がしたものですから、お雪が足をとどめたのも無理はありません。
「実川延若《じつかわえんじゃく》の石川五右衛門、ようござんしたねえ」
と、詠嘆的にいったのは、例の後家さんの声でありました。
帰って来ないはず。ここで話し込んでいたのだもの――
それにしても、座興半ばで席を外して、人の座敷へ来て、ゆるゆると話し込んで、しかも役者の噂《うわさ》、おばさんも暢気《のんき》過ぎると、お雪も少し呆《あき》れていると、
「そうすると、隣りの桟敷《さじき》にいた若い人のいうことがいいじゃありませんか、あれでは五右衛門がいい男過ぎる、五右衛門という奴は悪人だから、あんないい男にこしらえてはいけない……ですとさ。悪人をいい男にこしらえては、なぜいけないんでしょう。ですから、わたしがいってやりました、悪人はみんないい男ですよ、いい男だから悪人にされてしまうんですって。醜男《ぶおとこ》だけが誰もかまい手がないから、それでやむを得ず善人でいられるんですって。ですから大抵の女は、善人よりも悪人に惚れますよ、といってやりました」
後家さんは、水っぽい調子で得意になって、こんなことを言っていましたから、お雪がいっそう呆れてしまいました。
立聞きをすれば三尺下の地の虫が死ぬというたとえがありますから、お雪はそれを聞きたくないと思いましたけれども、こうなってみると、後家婆さんが得意になって浮《うわ》ついた話の最中へ入るのは厭《いや》な気がしますし、そうかといって、再び浅吉のところへ引返す気にもなりません。
そこで、お雪は気をかえて、ひとり湯殿へ下りて行きました。
十七
お雪が湯から上って来た時分には、後家さんも帰ってしまっていました。けれど、それから後、この後家さんは、いよいよお雪になつこくして、お雪も悪い心持はなく往来しているうちに、どうも後家さんがお雪を、浅吉に近づけよう、近づけようとしていることがわかりました。
前の時のように、お雪が来ると、自分は座を外《はず》して、浅吉と二人だけを残して置くのが、心あってするように、お雪にも気取《けど》られるほどになりました。
そうかといって、お雪は怖気《おぞけ》をふるって浅吉を毛嫌いするわけでもありません。また別段に不憫《ふびん》がるというのでもなく、万事を心得て、あたりまえに附合っていられるほど、お雪は素直な気質を持ち合わせていました。
それに反して、浅吉の方の躍起《やっき》となる有様は、日一日と目立ってゆくのです。
ある時、お雪は湯から上って帰ると、廊下でただならぬ物争いを聞きました。
それは珍しくも、あの柔順な浅吉が、主人の後家さんを相手に、一生懸命で何事をか言い罵《ののし》っているところです。
今日も、たくんでした立聞きではありませんが、行きがかり上、耳に入れないわけにはゆかないので、困っていると、
「おかみさん、あなたという人はほんとうに罪な人ですよ……今だから申しますが、先《せん》の旦那様のお亡くなりになった時だって、ずいぶん噂がありましたよ。穀屋《こくや》の家には今でも青い火が出ると、いわない人はありませんからね」
「ナニ、何ですって。人聞きの悪いことをお言いでないよ」
「申しますとも。あなたぐらい、性悪《しょうわる》の、男ったらしの、罪つくりな女はありませんよ。この夏中だってそうでしょう、わたしが見て見ないふり[#「ふり」に傍点]をしていれば……」
「おや、わたしはお前に監督されなけりゃならないのかい、お前が見ているところで、何かしちゃ悪いのかい」
「だッて、少しは遠慮というものがございましょう、私を前に置いて……」
「だからいってるじゃないか、何を私がお前に遠慮しなけりゃならないの……よく考えてごらん、身分を考えてごらん、わたしは主人、お前は雇人じゃないか」
「…………」
「口幅ったいことをおいいでないよ」
柔順な若い男は、肥《こ》え太《ふと》った浮気婆さんのために、頭から押しつぶされています。
聞くとはなし、それを聞いたお雪は、なんというかわいそうな人だろう、またこのおばさんも、なかなかのしたたか者だと思わないわけにはゆきません。
その日の午後、お雪は花を集めて部屋を飾ろうと思って、近いところの尾根から林の中へ入りました。
無心で花をたずねて、林の中へ進んで行くと、ふと行手でガサリ[#「ガサリ」に傍点]と音がしましたので、ハッと驚きました。もしや、あんまり深入りして、熊にでもでっくわしたのではないか。
とおそれて、その音のした林の奥を見ますと、幸いに熊ではありません。たしかに人間の姿であります。先方では気がつかないが、こちらではよくわかります。林の中を、あちら向きになって、うろうろたどって行くのは、まぎれもない、男妾の浅吉の姿でしたから、お雪は、不安な思いでじっとそれを見送りました。
暫く様子を見ているうちに、お雪がじっとしていられなくなって、顔色を変えて、一散《いっさん》に浅吉のいた方向に向って馳《は》せ出したのは、魂を失うたように、うろうろしていた浅吉が、今しも一本の木の枝を選んで、そこへ紐をかけたのはまさしく縊《くび》れて死のうとの覚悟に相違ありません。
あなやと、お雪はかけよって、今しも紐へ両手をかけた浅吉の身体《からだ》に抱きつきました。
お雪に抱き留められた浅吉は、それを振り解《と》くほどの気力もなく、ぐったりと草の上へ倒れて、さめざめと泣きました。
それを慰めるお雪。追々力をつけられて、死ぬまで思いつめた心の苦しみをお雪に訴える浅吉。つきつめてみると、それは嫉妬からです。あの浮気婆さんとの今までの関係を、浅吉はお雪に向ってことごとく打明け、あの後家さんの容易ならぬ乱行を、こと細かく語って聞かせました。旅役者か何かとくっついて、先《せん》の夫を毒殺したという専《もっぱ》らの評判。そのほか浮名を立てられた相手は今日まで幾人だか知れないが、いいかげんおもちゃにした後は、突き放したり、上手に切り抜けたりして――世間並みの金
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