いたりするものですから、つい人心を収攬《しゅうらん》してしまって、この色気たっぷりの後家さんが、この夏中の温泉の座持ちでありました。
そうしていま帰らなければ、御同様ここで冬籠《ふゆごも》りをするつもりかも知れない。
久助も、お雪も、その話を聞いて呆《あき》れてしまいました。しかし、呆れてしまった久助も、お雪も、この後家さんに面《めん》と向えば、そのお世辞に魅せられて滑《なめ》らかに話が合って、いい気持になるのが不思議なくらいです。
ただ、なんだか気の毒で痛々しいのは、後家さんの連れて来た男妾だといわれる男で、ロクロク座敷から顔を出さないで、たまたま顔を出した時も、気の抜けたような色をしているものですから、
「あの分じゃ、今年中には精《せい》も根《こん》も吸い取られてしまうだろう」
勝手口でよけいな心配をすると、
「とぼしきったら、また新しいのを差代《さしか》えらあな、金に不足はないし、あの色気じゃかなわねえ、この夏中、あの後家さんに吸いつかれたのが、少なくも五人はあったが、それでも吸い取られずに逃げたのが命拾いで、つかまったのが運の尽きさ」
と憎まれ口をきく者もある。
そんなのを聞きながらも、日一日とお雪は、この色気たっぷりの後家さんと懇意になって、お雪はおばさんおばさんといい、後家さんはお雪さんお雪さんといって、絶えず往来していましたが、ある日、
「お雪さん、きょうはひとつ鬼《おに》ヶ城《しろ》を見物に行こうじゃありませんか」
「参りましょう」
「二人、水入らずで行きましょうね」
「そうしましょう」
お雪はこの後家さんの誘いを素直《すなお》に受入れて、この地の名所、ついとうし[#「ついとうし」に傍点]から鬼ヶ城の方へ、フラフラと出かけました。
十五
そのあとで、机竜之助は、丹前《たんぜん》を肩から引っかけて、両手をその襟《えり》から出し、小机の前に向って、静かに罨法《あんぽう》を施しておりますと、
「御免下さいまし……」
怖る怖る隔ての襖を開いたものがあります。
「誰です」
竜之助は別に振向きもしません。振向いたとて見えもしませんから――
「御免下さいまし、お邪魔をしても、さしつかえございますまいか」
「お入りなさい」
と罨法《あんぽう》を施しながら、竜之助が答えました。
「それでは御免下さいまし」
御免下さいましを三重まで重ねて、おずおずと入って来たのは、二十二三の色の白い、羽織じかけの気の利《き》いた商人風のやさ[#「やさ」に傍点]男であります。
「実は、私は困ってしまいましたものですから、お見かけ申して、あつかましくもお願いに上ったわけなのですが……早く申しますと、私はここを逃げ出したいのでございますが、どう逃げ出したらよろしうございましょう、お察し下さいまし」
その語尾が、おろおろ声になるほどの嘆願でありましたから、ははあ、これは例の男妾だなと竜之助が思いました。
その話は、もうお雪から聞いていたのです――
「あの後家さんは男妾を連れて来ているんですって。かわいそうに、その男妾というのは、逃げ出したがって、逃げだしたがって、弱りきっているんですって」
とお雪が、前の晩に竜之助に向って、笑いながら話したことでした。
それが、この隙《すき》を見て相談に来たのだな、笑止千万なことだと思っていると、その男はにじり寄って、
「恥をお話し申さないとわかりませんが、実はあの婦人につかまりましたのも、私の方にも落度《おちど》がないとは申されませぬ……私の方にもあの後家さんをため[#「ため」に傍点]にしようと思う慾があったから、こうなってしまったんでございますが、これで私には、国に妻子が残してあるんでございます、どうかして逃げるくふうはないものでございましょうか、ただいまにも、私を逃がしていただけないものでございましょうか、お願いでございます」
馬鹿な奴だ! 意気地のない骨頂《こっちょう》の奴だ。つまり富裕な後家さんからたらされたのを機会に、甘い汁を吸おうと思って、御意《ぎょい》に従ったのが仇《あだ》となり、さんざん、おもちゃにされて精根《せいこん》を吸い取られ、逃げ出しては取つかまり、取つかまり、どうにもこうにも所在が尽き果てて、人の顔を見れば助けを求めているのだ。そこで竜之助は、
「せっかくですが、拙者にも智恵がありません」
男は泣かぬばかりに、
「弱りました、全く弱りました、この分では、私は殺されてしまいます……いっそ、女を殺してと思いましたけれど、私にはそれだけの力がございません、ああ、もうやがて帰って参りましょう、私は、怖ろしうございます、私はあの女の息をかぐのが、大蛇《おろち》の息をかぐような気持がします、あの女にそばへよられると、道成寺《どうじょうじ》の鐘のように、私の身が熱くなって、ドロドロにとけてしまいそうなんでございます、眼がまわります、苦しうございます」
五十を過ぎてあぶらぎった好色婆のために、取って押えられて、人目も恥じず、悶《もだ》え苦しむ有様は、むしろ悲惨の極であります。
久しぶりで竜之助の顔に、微笑が浮みました。
「何がそれほど苦しいのです、そんなに人を苦しめる奴は、懲《こ》らしておやりなさい」
「全く……」
男は苦しい声で叫びました。
「殺してしまいたいんですけれども、私は意気地なしでございます」
意気地なしは今はじまったことか――
その時、思わず竜之助の血が熱くなりました。一番その淫乱の後家をきってやろうかな。五十過ぎたとはいえ、脂《あぶら》ぎって飽くことを知らぬ女の肉体。きってまんざらきりばえのないこともあるまい。
そうなると、いよいよ冷然たるもので、竜之助は冷罨法《れいあんぽう》をつづけながら、
「これ、若い衆……」
「えッ」
男妾が、そのつめたい呼び声にヒヤリとします。
「お前は、本心からその女がいやなのか」
「いやでございますとも――死ぬほどいやでございます」
「その女が死ねばお前は助かるのだな、お前の力で殺せれば、殺したいのだが、その力がないとこういったな」
「ええ、その通りでございますとも、自分が殺されるか、あの婦人を殺して助かるかの境でございますが、私は意気地なしで、とても人を殺すことなんぞはできませんから、みすみすあの婦人にいびり[#「いびり」に傍点]殺されてしまうんです」
「よろしい、それでは、わしがお前の代りに、その女を斬ってみよう」
「えッ」
その時、男妾はゾッとして、
「えッ、ただいま、何とおっしゃいましたか」
竜之助の、たったいま言った一言を思い返そうとして、まずふるえ[#「ふるえ」に傍点]が先に立ちました。
冷罨法を施している竜之助は、二度とはそれに答えようとせず、男妾のみが、無暗にふるえ出してせきこみ、
「私に代って、あなた様が、あの婦人を斬っておしまいになる、殺して下さる、それは本当ですか。それは怖ろしいことです、その怖ろしいことを、あなた様が、私に代って、そうして……」
男妾は自分でせきこんで、自分で咽喉《のど》をつめてしまいました。
「本当でございますか。人を殺せば自分も助かりませんね、これを御承知でございますか。色事は冗談でございましょうとも、人を殺すのは真剣でございます……私はいったい、何を、あなた様に申し上げましたろう、何をおたのみ申したんでしょう」
一旦、息のつまった男妾はこういって、眼をきょろきょろ[#「きょろきょろ」に傍点]させながら、極度におちつかない心で四方《あたり》を見廻すと、竜之助のかたわらに大小の刀があることが、著《いちじる》しく脅迫的に眼にうつったと見えて、また青くなりました。ほとんど取返しのつかないことをやり出したもののように――
一切、その狼狽《ろうばい》に取合わない竜之助の冷やかさが、ようやくこの男妾を仰天させました。
「ねえ、あなた様、ただいま、何を申し上げましたか、それは一時の愚痴でございますから、どうかお取消しを願います、お気にさわりましたら、御勘弁下さいまし。なあにほんの取るに足らない色恋の沙汰でございますから、私さえ逃げ出せばそれでいいんでございます。生かすの殺すの、あなた、水の出端《でばな》や主《ぬし》ある間の出来事とは違いまして、生かすの殺すの、そんな野暮なものじゃございません……」
しかし竜之助は冷罨法《れいあんぽう》を施しつつ答えず。男妾はいても立ってもいられないように、座敷の中を飛び廻って、
「さきほど、あなたのおっしゃったことを、もう一度お聞かせ下さいまし、私に代ってあれを斬ってみようとおっしゃったのは、御冗談《ごじょうだん》でございましょうね。もし、御冗談でございませんでしたら、お取消し下さいまし。あやまります、あやまります、このように……」
それでも竜之助は返事をしませんでした。返事をする必要がないからでしょう。そこで男妾はまた立ち上って、
「本当のことを申しますと、私もあれが好きなんでございます、年こそ違っておりますけれど、たまらない親切なところがあるんでございますから……生かすの殺すの、それはあなた、一時の比喩《たとえ》、夫婦喧嘩同様な愚痴をお聞かせ申しただけなんでございますから、どうぞ……」
竜之助のつめたい面《かお》に、抉《えぐ》るように微笑ののぼって来たのはその時です。
十六
山地は寒《かん》の至ることも早く、白骨《しらほね》の温泉では、炬燵《こたつ》を要するの時となりました。
この頃、男妾の浅吉は、別な心持で落着かなくなりました。
というのは、後家さんの圧迫をのがれよう、のがれようと苦しんでいた男妾が、かえって嫉妬に似た気持で、後家さんを引きつけようとあせる気色《けしき》が、ありありと見え出したことです。
この二組のほかに、お客というもののない今日《いま》の白骨の全温泉で、おたがいが一家族のように親しくなるのはあたりまえで、おたがいに出入りの密になるのもあたりまえですが、後家さんが、お雪と竜之助のところへ話しに行くと、そのあとで、男妾の浅吉が、額に苦しい汗を出して、やきもき悶《もだ》えはじめます。そうして、ある時は一生懸命の思いで、後家さんに向ってこういうことを言いました、
「おかみさん、うっかりあの座敷へ行ってはいけませんよ……あの久助さんや、お雪ちゃんたちと、懇意にするのはようござんすが、あの浪人者みたような人に、近寄らないようになさいまし」
そうすると、色気たっぷりの後家婆さんが、
「何ですね、お前、そんなわけにゆくもんですか、この一つ家にいながら……」
と取合いません。
「それでもね、おかみさん、あの人は、どうも気味の悪い人ですから、御用心なさらなくちゃあ……」
「気味の悪い人……そりゃ御病人ですもの。お目が悪いのに、身体《からだ》が少し疲れていらっしゃるんですよ。つきあってごらん、なかなかよいところのある方ですよ」
「いいえ、おかみさん……」
といって男妾《おとこめかけ》の浅吉は、唾《つば》を呑み込んで、何かいおうとして、いうのを憚《はばか》りましたが、思い切って、
「おかみさん、あの方は人殺しをした方ですよ、そうに違いありません、私はそばへ寄ってゾッとしました。いいえ、証拠を見たわけじゃありませんが、たしかに人を斬って身を隠すために、こちらへ来ているんですよ、どうしても私にはそうとしか思われません。ですから、あの人のそばへ寄ると、いつも斬られてしまうようにばかり思われてなりません。ですから、おかみさん、あなたも斬られないようになさいまし」
「何をいってるんですよ、この人は……人様をつかまえて、そんなことをいってごろうじろ、それこそ本当に斬られる種をまくようなものじゃないか。わたしぁ、どんな人だってこわいと思わないよ、こっちの出様ひとつじゃないか、出様ひとつでどうにでもなるものだよ」
「ですけれど、おかみさん、あの方は殺すといったら、キッと人を殺しますよ、あの人情につめたい顔の色をごらんなさい」
「ほんとうにどうかしているよ、この人は……誰か、わたしたちを
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