引いていますから、この一行は、存分に広い座敷を占領することができ、どっしり[#「どっしり」に傍点]と落着いて、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]わが家へ帰った心になりました。
ことに、竜之助はここへ着くと、まず第一に、「これから充分眠れる」という感じで安心しました。
これから思う存分に眠るのだ、大地のくぼむほど寝つくのだ、という慾望が何よりも先にこの人の心に起ったのは、今まで身を労することは少なかったとはいえ、その生涯は、ほとんど[#「ほとんど」に傍点]波に任せてただようと同じことの生涯で、夜半夢破れた時は、いつも枕の下に波の声を聞かぬこととてはない。聞くところによれば、ここは飛騨と信濃の境、晩秋より初春まで、住む人もなき家を釘づけにして里へ帰るのだと。恰《あたか》もよし、これからようやくその無人の冬が来るのである。三冬の間をじっくり[#「じっくり」に傍点]と落着いて、ここで飽くまで眠り通すに何の妨げがある。
竜之助は、その以前は眠ることを怖れたものです。眠ることを怖れたのではない、眠って夢を見ることを怖れましたが、今はそうではありません。
このごろになって、はじめて夢を見ることの快楽が、少しずつ身にしみて来たようです。
四境|閑《かん》にして呼吸の蜜よりも甘い時、恍惚《こうこつ》として夢路に迷い入るの快味を味わうものにとっては、この世の歓楽などは物の数ではないとのこと。
またいう、夢の三昧《さんまい》に入る人は、必ずしも眠ってのみ夢を見るのではない、身を横にして眼をとざせば、雲煙がおのずからにして直前に飛び、神仙が脱化《だつげ》して人間界に下りて来るとのこと。
今、竜之助は、夢みることに新しい生活を見出し得たかのように夢みていると、お雪が、竜之助の枕もとへ、本を二三冊たずさえてやって来て、
「先生、お退屈でしょう、本を読んでお聞かせしましょうか」
「どうぞ」
と竜之助が夢を現実に振向けると、お雪が、
「王昭君物語という本ですよ。王昭君、御存じでしょう、支那の美人……」
と言って、その本を竜之助の前、行燈《あんどん》の下でくりひろげました。
お雪は本を読むことが、なかなか達者です。これは支那の物語を、だれか日本文に作り直した物語です。けれどもお雪は、その中に挟まれている漢文や、漢詩まで、苦もなく読みくだくので、竜之助がおどろいているくらいです。お雪になかなかの読書力があって、読み方が流暢《りゅうちょう》なものですから、竜之助も引入れられて、こころよい心持で聞いていました。
「これでおしまい、とうとう一冊読んでしまいました」
紙数にして五十枚ほどの一冊を、お雪はスラスラと読みおわって、巻《かん》をとざしながら、
「つまり王昭君という方は、絵をかく人に美人にかいてもらえなかったために、あんな運命になったのですね、美人薄命というのを、裏から行ったようなものですね」
と言いました。
「王昭君は本来美人なのだろう、だからやはり美人薄命さ」
竜之助が答えると、
「それはそうですけれど、本来の美人を、絵をかく人が醜婦にかいてしまったのでしょう、ですから、醜婦として取扱われてしまったんですね。つまり絵をかく人が、筆の先で王昭君を殺してしまったのですね」
「まあ、そんなものだ」
「してみると、人を殺すのは刀ばかりじゃありませんね、筆の先でも、立派に人が殺せるんですから……」
「そうだとも、筆の先でも、舌の先でも……」
と竜之助がいいますと、お雪が、
「わたしなんか美人じゃありませんから……」
それは謙遜《けんそん》で、お雪ちゃんにもなかなかよいところがあります。
「先生、わたしには、どうしてもまだ一つわからないことがあるのよ、いつかお尋ねしようと思っていましたけれど、つい……」
お雪がこう言いますと、竜之助が、
「何ですか」
「それはね、この間、塩尻峠の上のあの大変の時ですね、勝負がどうなったんだかちっともわかりませんわ、相手の人たちはいないし、斬られてしまったとばかり思っていた先生が、無事でお帰りになったんですから。わたし、あの時から、あなたは幽霊じゃないか知らんと思いました」
「あれですか、あの時は先方が乱暴をしかけたから、こっちがそれを防いだだけです」
「でも、先方は四人でしょう、そうして、あなたはお一人でしょう」
「ええ……」
「それで、どうしてお怪我がなかったのですか」
「こっちも刀を抜いて防いだから……」
「だって、あなたはお眼が見えないでしょう、眼が見えないで刀が使えますか」
「眼が見えなくたって、手があるじゃありませんか」
「だって、先生……」
「手があるから刀を抜いて防いでいました、そうしたら先方が逃げてしまったのです」
「だって、あなた、斬られたらどうなさるの?」
「斬られなかったから助かりました」
「その斬られないのが不思議じゃアありませんか、先方は眼のあいた人が四人で……」
「それでも、こうして刀を持っていれば斬れないじゃないか」
といって竜之助は、右の指を一本出して刀を構える形をして見せますと、
「斬られないことにきまっているもんですか、刀を持っただけで、斬られないッてことがあるもんですか」
「それでも……こうしていれば斬れないものだ」
竜之助が横になりながら、右手の指を一本出している形に、お雪はゾッとしました。
「じゃ、あなたは剣術の名人なのですか」
「名人でも何でもないさ、人間が二尺の刀を持って、五尺の身体《からだ》を守れないというはずはないでしょう」
「だって、先生、刀と物差《ものさし》とは違いましょう」
「そうですね、刀と物差は……」
竜之助は、お雪の比較を珍しそうに暫く考えていましたが、
「同じようなものでしょう、眼をつぶっていても、思う通りの寸尺に切ろうと思えば切れますからね」
「そんなことがあるものでしょうか……」
お雪もそれを考えさせられましたが、しばらくして気がついたように、
「そうそう、昔、裁縫の名人があって、年とってから眼がつぶれ、不自由をしたそうですけれど、ハサミを持つと、物差をつかわないで、一分一厘の狂いもなくたちものをしたという話を聞きました」
と言いました。
それそれ、おれは今でも刀を取れば、何人《なんぴと》をものがさないのだと竜之助はいいませんでした。けれどもお雪は、眼が見えなくても、刀は使えるものだとうすうす信ずるようになって、
「それでも先生、もうおよしなさいましよ、ああいう時は早く逃げて、相手になさらないようになさいまし」
「逃げるったって、逃げられないじゃないか」
と竜之助が言いますと、
「全く困ってしまいましたわ。つまり運がよかったんですね」
ここでも運の一字で、偶然と必至とに結論をつけようとしている時、下の座敷で、にわかに足拍子の音が起って、声を合わせて歌い出したものですから、
「木曾踊りが始まりました」
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こころナアー
ナカノリサン
[#ここで字下げ終わり]
節面白く歌う木曾節は、
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こころナアー
ナカノリサン
心細いよ
ナンジャラホイ
木曾路の旅は
ヨイヨイヨイ
笠にナアー
ナカノリサン
笠に木の葉が
ナンジャラホイ
舞いかかる
ヨイヨイヨイ
[#ここで字下げ終わり]
お雪も、竜之助も、二階で、その歌と足拍子を、手に取るように聞いておりましたが、
「先生、木曾踊りがはじまりました。夏の盛りの時は、あれが毎晩のようにあったんだそうですけれど、もう人が少なくなったものですから、きょうは納めの木曾踊りだそうですよ」
お雪は、その歌と踊りの音に、そそられたようですけれども、竜之助は、さほど多感ではありません。
「まだ、あんなに人がいたのですか」
「ええ、総出で踊っているんでしょう、お客様も、宿の人たちも、そうしてきょうは器量一杯に踊って、あすは、みな散り散りに別れるんですって、寒くなりましたから……」
「お雪ちゃん、お前も行って踊りなさい」
と竜之助が言いますと、
「わたし、踊れやしませんわ、ですけれども、ちょっと行って見て参りましょう」
「歌をよく覚えておいでなさい」
「ええ」
お雪はこの座を立って踊りを見に行きました。
十四
お雪が行って見ると、下の座敷を打抜いて、かれこれ五十人ほどの老若男女《ろうにゃくなんにょ》が、輪を作って盛んに踊っているところでありました。
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木曾のナアー
ナカノリサン
木曾の御岳山《おんたけさん》は
ナンジャラホイ
夏でも寒い
ヨイヨイヨイ
袷《あわせ》ナアー
ナカノリサン
袷やりたや
ナンジャラホイ
旅の人
ヨイヨイヨイ
[#ここで字下げ終わり]
お雪が後から駈けつけて立って見ると、音頭《おんど》を取っていた五十ぐらいの、水々しくふとった婆さんが、お雪を見て、
「あなたもお入りなさいな」
「いいえ、わたし、踊れないんですもの」
「踊れますよ、中へ入っておいでなされば、誰でもひとりでに踊れるようになりますから、お入りなさいな」
「有難うございます」
お雪がまだ遠慮をしていると、その色気たっぷりの婆さんが、また輪の中へ戻って、
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袷《あわせ》ナアー
ナカノリサン
袷ばかりも
ナンジャラホイ
やられもせまい
ヨイヨイヨイ
襦袢《じゅばん》ナアー
ナカノリサン
襦袢仕立てて
ナンジャラホイ
足袋そえて
ヨイヨイヨイ
[#ここで字下げ終わり]
このお婆さんの頬かぶりと踊りぶりが水際立《みずぎわだ》っておりました。やはりここへ湯治に来ているお客様の一人には相違ないが、いつかこのお婆さんが、一座の指揮者のようになってしまい、すべてはその指揮に従って、喜んで踊っているようです。そう思って見ると、この婆さん、身なりもお召か何かをきて、年には似合わず色気たっぷりで、そのくせ、茶屋料理屋のおかみさんとも見えず、やっぱりこういった派手好きの素人《しろうと》の、裕福な家の後家さんとでもいったようなものでした。
果して、この総踊りを名残《なごり》に、その翌日になると、泊り客のほとんど総てが別れ別れになって、帰国の途につきました。
ひとり色気たっぷりな物持の後家さんらしいのは帰りません。その次の日になっても、帰ろうとする模様が見えません。
で、お雪と顔を合わせるごとに、愛嬌《あいきょう》たっぷりでお世辞を言いました。
これでは、四十島田をいやがる者まで、ついまきこまれるだろうと思われるほどの愛嬌を売るものですから、お雪も心安くなりました。実際、また今はお雪のほかには女客は、みんな帰ってしまったのですから、いやでも心安くなるのはあたりまえです。
どこのおかみさんで、どういう人で、いつまでこんなところに逗留《とうりゅう》しているつもりだろう――と、お雪がそれを不審がるのもあたりまえで、それを尋ねもしないうちに、宿の男衆が告げてくれたのは、この人たちにも、かねて疑問となっていたからです。
「ありゃ、飛騨の高山の名代《なだい》の穀屋《こくや》の後家さんですよ、男妾《おとこめかけ》を連れて来ているんですよ、男妾をね」
と言ったものですから、お雪がそうかと思いました。
ある時、廊下で顔を見合わせた若いのがそれでしょう。色が青ざめてやせていましたが、かなりのやさ[#「やさ」に傍点]男と思いました。
後家さんは、それを男妾だとはいいません、伴《とも》につれて来た男衆だといっていますけれど、到着早々、誰もそれを信ずるものがなくなってしまったので、若い男は少しばかりきまり[#「きまり」に傍点]を悪がっているが、婆さんはしゃあしゃあとしたもので、どうかすると、泊り客にも思いきったところを見せつけたりなどするものですから、この夏中、評判の中心となっていました。
「あんな婆さんに可愛がられては、男妾もやりきれまい」
岡焼半分に噂は絶えなかったが、後家さんは闊達《かったつ》なもので、愛嬌で泊り客をなめまわし、身銭《みぜに》をきっておごってみたり、踊りの時などは、先へ立って世話を焼
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