らまた、一行の神楽師に対する豪傑連中のもてなしが、甚だ丁重《ていちょう》で、いわゆる芸人風情にするものとは行き方がちがっていることを、不思議にも思いました。
これは申すまでもなく、お銀様が、武蔵と甲斐と相模あたりの山の中で、思いがけなく見せられた一団の舞踊とおなじことで、その指揮をつかさどっていたのも、今で思い合わせると、ここで高村卿と呼ばれている英気風発の公達《きんだち》であったに相違ない。
前にいった通り、その時分の京都の公卿さんの若手のうちには、きかないのがおりました。中山忠光卿や、姉小路|公知《きんとも》卿や、岩倉|具視《ともみ》卿あたりもその仲間でありましょう。ここに現われた高村卿なるものも、多分その一人であろうと思われる。
彼等の憂うるところは、徳川幕府よりはむしろ勤皇を名として勢いを作り、幕府の実権をわが手におさめようとする一二雄藩の野心である。ちょうど、足利尊氏《あしかがたかうじ》が最初に勤皇として起り、ついに建武中興をくつがえしたように、徳川を倒すはよいが、徳川を倒した後の第二の徳川が起っては、なんにもならないではないか。これは今のうちに、あらかじめ備えておかな
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