う》の回錦図巻を模写しておりました。
 あれほどに写生を主張していた男が、船から上ると早々模写をはじめたことは、多少の皮肉でないこともないが、そうかといって、写生主義者が模写をして悪いという理窟もありますまい。つまり、よくよくこの仇十洲の回錦図巻に惚《ほ》れこんだればこそ、万事を抛《なげう》って模写にとりかかったものと見るほかはない。
 仇十洲の回錦図巻の模写に、田山白雲が寝ることも、飲むことも、忘れていると、
「今晩は……」
 そこへ、極めてものなれた女の声。
「はいはい」
 田山白雲も筆を揮《ふる》いながら洒落《しゃらく》に答えますと、
「入ってもようござんすか」
「ようござんすとも」
「そんなら入りますよ」
「おかまいなく」
 白雲は始終描写の筆をやすめませんでした。白雲の頭は仇十洲の筆意でいっぱいになっているものですから、障子の外のおとずれなどはつけたりで、調子に乗って、うわ[#「うわ」に傍点]の空で返事をしてみただけのものです。
「御免下さい」
 障子をあけて、そこに立ったのは、スラリとした牡丹燈籠のお露です。
「はい」
 それでも田山白雲は筆もやすめないし、頭を後ろへまわし
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