えているのでございます」
といって、あらぬ方《かた》に向き直って、いつもするように、誰をあてにともない申しわけ。
「ええ、私でございますか……いつも申し上げる通り、この眼が見えないものでございますから、耳の方が発達しておりまして、一度聞かせていただいたことはわすれません、二三度、とっくり[#「とっくり」に傍点]と聞かせていただきますと、生涯わすれないのが、幸か不幸か私にはわかりませぬ……ことに、達人高士のお言葉には、必ず音節とおなじような律《りつ》がございますものですから、それが音律の好きな私には、ひとりでに、すらすらと覚えられてしまう所以《ゆえん》でございます」
 弁信は、ふらふらと庭の中を二足ばかりあるいて踏みとどまり、
「日蓮上人は、安房《あわ》の国、小湊《こみなと》の浜でお生れになりました。こういう山国とちがいまして、あちらは海の国でございます、大洋の波が朝な夕なに岸を打っては吼《ほ》えているのでございます……小湊へおいでになった方も多いでございましょうが、あの波の音をお聞きになりましたか……今も波の音が南無妙法蓮華経と響いて聞えるのが不思議でございます、それは日蓮様がお生れに
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