を聞いている弁信の面《おもて》から、泣くが如く、憂うるが如き、一味の哀愁を去ることができません――これは二人の性格の相違にもよるのでしょうが、すべて天上を見るものには、無限のあこがれがあって、地上に眼を転ずる時は、誰しも一味の哀愁をわすれることができないのでしょう。
 そこで、天上と地上の二人の交渉は、暫く絶えてしまいました。
 星はほしいままに天上にかがやき、虫は精いっぱいに地上で鳴いていると、
「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりました」
 弁信法師がこういって、見えない眼をしばたたいたのは、物に感じて、また例のお喋《しゃべ》りを禁ずることができなくなったものでしょう。
「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりましたのは……」
 弁信法師は、地上の虫が咽《むせ》ぶように咽び出して、
「現在の大難を思うも涙、後生《ごしょう》の成仏《じょうぶつ》を思うてよろこぶにも涙こぼるるなり、鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と御遺文のうちから、私が清澄におります時に、朋輩から教えられたのを覚
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