人の襟首をひっぱって、船底の方へ投げ込んでしまったのは、あながち怪力というわけではない、呑まれてしまった遊民どもが、自由自在になっているのです。
 そこで、さしも全権を振《ふる》っていたこの連中が、一時に閉塞《へいそく》して、ことごとく船の底へ下積みにされてしまいました。
 船中の者も、この勇者を欽仰《きんこう》することは一方《ひとかた》ではありません。
 その勇気といい、筋骨といい、身に帯びたすばらしい長短の刀といい、天下無敵の兵法《ひょうほう》の達者、誰が見ても疑う余地はありません。最初の口火を切った駒井甚三郎の影は、この勇者の前に隠されて、一人もそれを讃仰《さんごう》するものはないのです。
 駒井もまた、この豪傑が不意に現われて、自分の解決すべき難関を、一気に解決してくれた幸運をよろこびましたから、讃仰者のないのを恨みとする理由はありません。こういう場合においては、第一声を切ることが勇者の仕事で、その出端《でばな》を利用して敵を驚かして、一気に取挫《とりひし》ぐことは、喧嘩の気合を知っているものにはむしろ容易《たやす》いことですが、駒井は閑却されて、あとから出た豪傑が人気を独占し
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