てに来たのではないらしい。よくよくの深い仔細《しさい》があればこそだろうが、今まで兵馬には、そんなことを立入って、たずねてみるほどの余裕がないのでした。
今となって、燈下にうつるこの女の呪《のろ》わしき影法師を見ると、何か知らん、強くわが胸を打つものがあるように思われてならぬ……男装した女。行くにも、住《とど》まるにも、覆面を取らぬ女……その生涯にはかぎりなき陰影がなければならぬ。道はちがうが、われも多年人を求むる身だ。こう思って兵馬が、新しい感興に駆《か》られた時に、
「あなた、もし、この刀の持主を御存じはありませぬか?」
といって不意に立ってお銀様が持ち出したのは、例の床の間の白鞘《しらさや》の一刀です。
宇津木兵馬はその刀を見て、こんな刀が、この寺にあったのかと疑いました。
行李をまとめていた手を休めて、お銀様の手からその刀を受取ると、多大の疑惑を以て、その刀を抜きにかかりました。
兵馬はまだ刀を見て、その作者を誰といいあてるほどの眼識はない。けれども、刀の利鈍と、品質はわかる。ことに一たび実用に用いた刀……露骨にいえば、最近において人を斬ったことのある刀は、一見してそれ
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