いているのだなとさえ思いましたが、道庵のすることをいちいち干渉していた日には、際限がありませんから、別にその理由もたずねませんでした。
そうして浦和の宿《しゅく》――江戸より五里三十町、京へ百二十九里二十八町というところへついて、そこで今晩は泊ることになる。
ここにはあまり、よい宿屋がありませんでした。泊り客を見かけては道庵がいちいち、途中で手折《たお》って来た槐《えんじゅ》のような木の枝を渡していうことには、
「これは苦参《くじん》といって蚤《のみ》よけのおまじないになる。見かけたところ、この宿屋には蚤がいるにちげえねえ、これを蒲団《ふとん》のしたにしいてお寝」
おかげさまで、その晩は蚤に食われなかったお礼をいうものがありました。そこで米友には、道庵の道草の理由がわかり、
「先生のすることにソツ[#「ソツ」に傍点]はねえ」
といまさらのように、感心をしてしまいました。
浦和から大宮、武蔵の国の一の宮、氷川大明神《ひかわだいみょうじん》へ参詣して、またまた米友をおどろかせたのは、道庵先生が見かけによらず敬神家で、いとねんごろに参拝祈願する体《てい》を見て驚嘆しました。この先生、いいかげんのおひゃらかしだ[#「おひゃらかしだ」に傍点]と思っているとあて[#「あて」に傍点]がちがう。この殊勝な参拝ぶりを見て、正直な米友が、いよいよ感心をしてしまったのも無理はありません。しかしあとでいうことには、
「すべて、神仏を大切にすることを知らねえ奴に、ロク[#「ロク」に傍点]な奴があったためし[#「ためし」に傍点]がねえ、国々へ行って見な、いい国主ほど神仏を大切にしてらあ、人間だってお前、エラク[#「エラク」に傍点]なるぐらいのやつは、エライ[#「エライ」に傍点]ものの有難味を知ってらあな、薄っぺらなやつだけが神仏を粗末にする」
と言って気焔を吐きました。
この気焔によって見ると、道庵先生自身はエライ[#「エライ」に傍点]奴の部類に属していて、薄っぺらな奴に属していないという理窟になるのですが、米友はそこまでは追究せず、なるほどそういうものか知らんと思いました。
宇治山田の米友は、伊勢の大神宮のお膝元で生れたから、神様の有難いことを知っている。そこで道庵につづいて笠を取って、恭《うやうや》しく氷川大明神の前に礼拝をすると、
「こいつは感心だ、見かけによらねえ」
と言って道庵が手をうってよろこびました。
その時、道庵先生は米友に向って、
「神様を拝むには、少し遠く離れて拝まなくちゃならねえ、あんまり賽銭箱《さんせんばこ》の傍へ寄って拝んじゃならねえ……ちょうど、この鳥居前あたりがいいところだろう」
と神様を拝む秘伝を教えますと、米友が解《げ》せない面《かお》をしました。
「先生」
「何だい」
「どこで拝んだって、心さえ誠ならば、それでよかりそうなものじゃねえか……よしんば賽銭箱の前で拝もうと、鳥居前で拝もうと、信心に変りがなければ、御利益《ごりやく》にも変りはなかろうじゃねえか」
と米友が不審を打つと、道庵はそこだとばかりに、
「それが素人考《しろうとかんが》えというものだ」
と一喝《いっかつ》を試みました。
「そうかなあ」
米友は無言で何か反省を試むるような気色《けしき》でありましたが、なにぶん解《げ》せない面色《かおいろ》を拭うことができません。
「わかったか」
と道庵からいわれて、
「どうもわからねえ」
と白状しました。正直な米友の心では、神様を拝むのに誠心《まごころ》を論ずるのはよいが、距離を論ずるのは、ドコまでも不当理窟のように思われてならないのです。つまり、お賽銭箱の前で拝もうと、鳥居の前で拝もうと、また自宅の神棚へ招じて拝もうと、誠心に変りがなければよいものだという理窟を、道庵が排斥しながら説き明《あか》してくれないものだから、迷います。
道庵はそれを相変らずいい気持で、
「は、は、は、は、は……」
と高笑いしたのは、本気の沙汰だか、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]ているのだかわかりません。
しかし、米友としては道庵を信じ、今までとても、気狂《きちが》いじみたところに、あとでなるほどと思わせられたり、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]きったのが存外、まじめであったりしたことを、いつもあとで発見させられるものですから、これにも何か相当のよりどころがあるので、それはあとでおのずから教えられることだろうと、押返してたずねなかったのは、つまり米友もそれだけ修行が積んだものでしょう。
凡庸《ぼんよう》なる科学者を名画の前へ連れて行くと、心得たりとばかりに画面へ顔を摺《す》りつけながら、天文学で使用するような拡大鏡を取り出して両眼に当て、画面の隅々隈々《すみずみくまぐま》までも熱心に見つめる。そうしていう。この線とこの線の間は何
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