ものやわ》らかな豆腐屋の隠居、義理固い炭薪屋《すみまきや》の大将といったような公民級をはじめとして、子分のデモ倉、プロ亀に至るまでがはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]まわってみおくりに来ました。
しかし、これらの連中は、みな庚申塚でかえしてしまい、あとに残るのは先生と、同伴の宇治山田の米友と二人だけ。
「米友様」
と道庵先生が呼びかけると、
「うん」
と米友がこたえます。
道庵がしゃれ[#「しゃれ」に傍点]て褄折笠《つまおりがさ》に被布《ひふ》といういでたち[#「いでたち」に傍点]。米友は竹の笠をかぶり、例の素肌《すはだ》に盲目縞《めくらじま》一枚で、足のところへ申しわけのように脚絆《きゃはん》をくっつ[#「くっつ」に傍点]けたままです。二人ともに手頃の荷物を振分けにして肩にひっかけ、別に道庵は首に紐をかけて、一瓢《いっぴょう》を右の手で持ちそえている。米友は独流の杖槍。
「さて米友様、永《なが》の旅立ちというものは、まず最初二三日というところが大切でな……静かに足を踏み立ててな、草鞋《わらじ》のかげんをよく試みてな……そうしてなるべく度々休んで足を大切にすることだ」
「なるほど」
「旅籠屋《はたごや》へ着いたら、第一にその土地の東西南北の方角をよく聞き定めて、家作りから雪隠《せついん》、裏表の口々を見覚えておくこと……」
「うん」
「もしまた、馬や、駕籠《かご》や、人足の用があらば、宵《よい》のうちに宿屋の亭主にあってよく頼んでおくがよい、相対《あいたい》でやると途中困ることがあるものだ。朝起きては膳の用意をするまでに仕度をして、草鞋をはくばかりにして膳に向うようにしなくちゃならねえ」
「うん」
「朝はせわしいものだから、よく落し物をする故、宵のうちによく取調べて、風呂敷へ包んで取落さぬようにしなくちゃならねえ」
「なるほど」
「旅籠屋は定宿《じょうやど》があれば、それに越したことはないが、初めてのところでは、なるたけ家作りのよい賑やかな宿屋へ泊ることだ、少々高くてもその方が得だ」
「そうかなあ」
「道中で腹が減ったからといって、無暗に物を食ってはいけねえ、また空腹《すきばら》へ酒を飲むのも感心しねえ……酒を飲むなら食後がいいな、暑寒ともにあたためて飲むことだよ、冷《ひや》は感心しねえ」
「おいらは酒は飲まねえ」
と米友がいいました。
「そうか、では道中は、別してまた色慾を慎まなければならぬ……道中には、飯盛《めしもり》だの売女《ばいじょ》だのというものがあって、そういうものには得て湿毒《しつどく》というものがある」
道庵先生は、丁寧親切に米友に向って、道中の心得を説いて聞かせているつもりだが、酒を飲むなの、色慾を慎めのということは、この男にとってはよけいな忠告で、御本人の方がよっぽど[#「よっぽど」に傍点]あぶないものです。
それでも米友は神妙に聞いていると、ほどなく板橋の宿へ入りました。
「さあ、米友様、ここが板橋といって中仙道では親宿《おやじゅく》だ。これから江戸へは二里八丁、京へ百三十三里十四丁ということになっている、先は長いから、まあいっぷくやって行こう」
と、あるお茶屋へ休みました。
こうして二人がつれ立って歩くと、こまったことには道庵の方はそれほどでもないが、米友の姿を見て、みかえらないものはないことです。極めて背の低いのが、もう袷《あわせ》を重ねようという時分に、素肌に盲目縞《めくらじま》の単衣《ひとえ》で元気よく、人並より背のひょろ高い道庵のあとを、後《おく》れもせずに跛足《びっこ》の足で飛んで行く恰好《かっこう》がおかしいといって、みかえるほどのものが笑います。
「やあ、チンチクリンが通らあ……」
正直な子供たちは、わざわざ路次のうちから飛んで出て、米友の周囲にむらがるのです。
そのたびごとに、米友に腹を立たせまいとする道庵の苦心も、並々ではありません。
「何でも米友様、旅に出たら、堪忍《かんにん》が第一だよ、腹の立つことも旅ではこらえつつ、言うべきことは後にことわれ……お前は頭がいいから、物の見さかいがなく、大名でも、馬方人足でもとっつかまえて、ポンポン理窟をいうが、あれがいけねえ、物言いを旅ではことに和《やわ》らげよ、理窟がましく声高《こわだか》にすな……というのはそこだて……」
しかし、米友とても、そう無茶に腹を立つわけのものでもなし、道庵とても好んで脱線をしたがるわけでもありませんから、町場を通り過ぎてしまえば、心にかかる雲もなく、道庵はいい気持で、太平楽《たいへいらく》を並べて歩きます。
太平楽を並べて歩きながらも道庵は、折々立ち止まって路傍の草や木の枝を折って、それをいい加減に小切《こぎ》っては束《たば》ねて歩きますから、米友が変に思いました。この先生は文字通りの道草を食って歩
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