くぜん》としました。
「え」
そこで初めて振返って見ると、例のゾッとするほどの妙齢の美人です。
「あなたは何ですか」
「幽霊じゃありませんよ」
疑問を先方が答えてくれましたから、白雲ほどのものが度肝《どぎも》を抜かれました。
「いつ、ここへ入って来ました?」
「いつ……? 今、あなたにお聞きしたんじゃありませんか、それで、あなたがいいとおっしゃったから入って来たのよ」
「そうでしたか、拙者がいいと言いましたか」
「いいましたとも」
「そうでしたか……」
田山白雲が呆《あき》れ返ってながめると、その上に解《げ》せないことは、この美人が後生大事に胸に抱きかかえているものがあります。
それが人間の生首でなくて仕合せ。
「あなた、わたし、今日、鋸山の日本寺へ参詣して来たのよ、一人で……」
「そうですか」
「そうしてね、途中で美《い》い男にあいましたのよ、それはそれは美い男」
「そうですか、それは結構でしたね」
白雲がしょうことなしに話相手になりました。
「あなたより美い男よ……」
「そうですか、わたしより美い男でしたか」
と白雲が苦笑いしました。
「ですけれども、あなたも美い男よ……美い男というより男らしい男ね、あなたは……」
「大きに有難う」
「ですけれども、茂太郎も美《い》い子ね、あなたそう思わなくって?」
「左様……」
「そうでしょう、あのくらい美い子は、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と見当らないわ」
「そうかなあ」
「それに第一声がいいでしょう、あの子の声といったら素敵よ。昔は、わたしが歌を教えて上げたんだけれど、今ではわたしより上手になってしまったわ」
「ははあ、そんなに歌が上手でしたか」
「上手ですとも。あなた、それで、あの子は声がよくって、歌うのが上手なだけではないのよ、自分で歌をつくって、自分で歌うのよ」
「そうですか、それはめずらしい」
「一つ歌ってお聞かせしましょうか」
「どうぞ」
「わたしは茂太郎ほどに上手じゃありませんけれど、それでも茂太郎のお師匠さんなのよ」
「何か歌ってお聞かせ下さい」
「何にしましょうか」
「何でもかまいません」
「それでは、わたしが茂太郎に、はじめて歌の手ほどきをして上げた、あれを歌いましょうか」
「ええ」
「それは子守唄なのよ」
「子守唄、結構ですね」
「それでは歌いますから、よく聞いていらっしゃい」
といって、女は胸に抱いているものをあや[#「あや」に傍点]なすようにして、
[#ここから2字下げ]
ねんねがお守《もり》は
どこへいた
南条|長田《おさだ》へとと買いに
そのとと買うて
何するの
ねんねに上げよと
買うて来た
ねんねんねんねん
ねんねんよ
[#ここで字下げ終わり]
そうすると、女が歌の半ばにほろほろと泣き出してしまいました。
田山白雲は胸を打たれて気の毒なものだと思いました。この年で、この容貌《きりょう》で、そしてこの病。
これが岡本兵部の娘なのか。
娘は泣きながら両袖を合わせて、抱えたものをいよいよ大事にし、
「ねえ、あなた、茂太郎はどこへ行きましたろう……鋸山の上にもいませんでしたわ」
「そのうち帰るでしょう」
「そうか知ら、帰るかしら、いつまで待ったら帰るでしょう」
[#ここから2字下げ]
ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
お山を越えて
里越えて
そうしてお家へ
いつ帰るの……
[#ここで字下げ終わり]
女は蝋涙《ろうるい》のような涙を袖でふいて、
「ねえ、あなた、この子の面《かお》が茂太郎によく似ているでしょう、そっくり[#「そっくり」に傍点]だと思わない?」
といって、今まで後生大事に胸にかかえていたものを、両手に捧げて白雲の机の上に置きました。それは石の羅漢《らかん》の首ばかりです。
「うむ」
白雲が挨拶に苦しんでいると、
「似ているでしょう。もし似ていると思ったら、それを描《か》いて頂戴な……」
十
田山白雲は保田を立つ時、予期しなかった二つの獲物《えもの》を画嚢《がのう》に入れて立ちました。
仇英《きゅうえい》の回錦図巻と狂女の絵。その二つを頭の中で組み合わせながら、再び白雲は旅にのぼったものです。
下谷の長者町の道庵先生が、かねての志望によって、中仙道筋を京大阪へ向けて出立したのも、ちょうどその時分のことでありました。
先生のは、もっと、ずっと以前に出立すべきはずでしたけれども、米友の方に故障もあったり、何かとさしつかえがそれからそれと出来たものですから、つい延び延びになってしまいました。
いよいよ出立の時は、近所隣りや、お出入りのもの、子分連中が盛んに集まって、板橋まで見送ろうというのを強《し》いて辞退して、巣鴨の庚申塚《こうしんづか》までということにしてもらいました。物和《
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