それだ、その人ならば、あなたが尋ねる人ではない……」
 兵馬の昂奮がお銀様を驚かしたのみならず、あわただしく刀を鞘《さや》に納めて、投げ出した行李《こうり》を再びひきまとめて、
「私は、あなたと共に、その温泉へ行かなければならぬ、その温泉とはどこですか」
 兵馬が最初の当途《あてど》もない甲武信の山入りを放擲《ほうてき》したのと、お銀様と共に、その未だ知られざる温泉へ、発足しようと思い立ったのとは同時です。
 ここに運命の極めて奇なる因縁で、宇津木兵馬とお銀様とは、その翌日、行を共にして尋ね人のあとを追うことになりました。
 温泉の名をハッコツとだけは、知ることができましたが、そのハッコツとはどこ。それは誰に聞いても要領を得ることができませんでした。
 今ならばハッコツの音《おん》から解いて、白骨《しらほね》の字をさぐるのはなんでもないことですけれども、その当時にあって、日本人の一人も、日本アルプスの名を知らないように、信濃《しなの》と飛騨《ひだ》の境なる白骨温泉《しらほねおんせん》の名は、誰の耳にも熟してはおりませんでした。
 ともかくも、温泉として聞えたる信濃の国、諏訪の地名から推《お》して、多分それに近くとも遠くはない地点だろうとの二人の想像は、さのみ無理ではありません。そこで二人は、まず諏訪の温泉を目標として、探索の歩を進めることに相談をきめました。
 欲望を異にして、目的を同じうするこの悪戯《あくぎ》に似たるほどの奇妙な道連れは、単に道連れとしてはおたがいに頼もしいものでありました。なぜならば、お銀様は長途の旅に、兵馬ほどの護衛者を得たわけであり、兵馬はまた今の最も欠乏している路用の上に、最も有力なる後援者を得たということになるのです。事実、お銀様はこの時もまだ多分の金を懐中に入れてありました。なお、これから諏訪の方面へ向けて旅立ちの途中、故郷の有野村へでも手を入れようものなら、自分の所有のうちから、誰にもはばからずに、ほとんど無限の融通をつけるのは何でもないことです。
 お銀様は今も、持てる金のすべては兵馬に附託して、これで旅の用意の万事をととのえるように、そうして乗物も二人分、通しを頼んでもらいたいということをいいました。
 しかし兵馬は、お銀様だけは都合のよい乗物で、自分はドコまでもそれに附添うて、徒歩で行こうと決心をきめて、それによって旅行の準備を進めてしまいました。
 兵馬は計らずして、敵《かたき》の行方《ゆくえ》に一縷《いちる》の光明を認めたと共に、思い設けぬ富有の身となりました。附託されたかなりの大金は、いやでも自分が保管するのが義務のようになっている。この奇怪にしてしかも鷹揚《おうよう》なお嬢様は、今後必要に応じて、いくらでも兵馬のために、支出することを辞せない様子を見せている。
 あてどもない山奥に、半ば自暴《やけ》の身を埋めに行こうと決心した兵馬は、ここにゆくり[#「ゆくり」に傍点]なく、幸運の神に見舞われたようなもので、暫く茫然《ぼうぜん》と夢みる心地でいましたが、若いだけに早くも心に勇みが出て、踏みしめる足許もなんとなく浮き立つように感じ、ほとんどこの何年来にもなかったよろこび[#「よろこび」に傍点]に、心が跳《おど》るのであります。
 そうかといって、この世に代価を払わない幸運というものは一つもない。兵馬にこの幸運を与えた祝福の神は、人の子を取って食う鬼子母《きしも》の神であってみれば、早晩何かの代価を要求せられずしては済むまいと想われる。

         六

 駒井甚三郎は、房州の洲崎《すのさき》に帰るべく、木更津船《きさらづぶね》に乗込みました。
 その昔お角が、清澄の茂太郎を買込みに行く時に乗込んで、大難に遭《あ》ったのとおなじ航路で、おなじ性質の乗合船。
 なるべく人目に立たないように、駒井は帆柱のうしろ、荷物の隅に隠れていました。
 乗合の客は、例のとおなじように、士分階級をのぞいた農工商のものと、今日は、それ以外の遊民が少なからず乗合わせている。
 遊民というのは、玄冶店《げんやだな》の芝居に出てくるような種類の人。赤間の源左衛門もいれば、切られない[#「ない」に傍点]の与三《よさ》もいる。お富を一段上へ行ったようなお角がいないのが物足りない。
 しかし、きょうは、天気も申し分なく、近き将来の時間において、思い設けぬ天候の異変もこれあるまじく、たとえ、お角が乗合わせていたからとて、人身御供《ひとみごくう》に上げられる心配もまずありそうなことはなく――そうそうあられてはたまらない――それで江戸湾内を立ち出でる木更津船の形は、広重《ひろしげ》に描かせて版画にしておきたいほど、のどかなものです。
 隠れているといっても、なにしろ限りある木更津船の甲板の上で、書物を開いている駒井甚
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