三郎の耳には、乗合船特有の世間話が、連続して流れ込んで来るのを防ぐことはできない。ある時は耳を傾けて、これに興を催してみたり、ある時は書物に念を入れて、それを聞き流したりしているうちに、こまったことには、例の遊民の連中がいつか気を揃えて、いたずら[#「いたずら」に傍点]を始めてしまったことです。
「半方《はんかた》が二十両あまる、ないか、ないか」
と中盆《なかぼん》が叫び出すと、
「おい、音公、お前に五本行ったぞ」
 貸元が念を押す。
「合点《がってん》だ」
 向う鉢巻が返答する。
「六三に四六を負けるぞ、負けるぞ」
と中盆が甲高声《かんだかごえ》で呼び立てると、
「はぐり[#「はぐり」に傍点]をうっちゃれよ、打棄《うっちゃ》れよ」
と片肌脱《かたはだぬぎ》がせき立てる。
「一番さい[#「さい」に傍点]てくれ、さい[#「さい」に傍点]てくれ」
 鳴海《なるみ》の襦袢《じゅばん》が居催促をする。
「金公、それ三本……ええ、こっちの旦那、お前さんは十本でしたね」
 貸元は盛んにコマ[#「コマ」に傍点]を売る。
「いいかげんに、やすめ[#「やすめ」に傍点]を売れやい」
「勝負、勝負……」
 駒井甚三郎も、これには弱りました。
 この連中も最初のうちは、やや控え目にしていたのが、ようやく調子づいて来ると、四方《あたり》に遠慮がない。諸肌脱《もろはだぬぎ》になった壺振役《つぼふりやく》が、手ぐすね引いていると、声目《こえめ》を見る中盆《なかぼん》の目が据わる。ぐるわの連中が固唾《かたず》を呑んで、鳴りを静めてみたり、またけたた[#「けたた」に傍点]ましくはしゃ[#「はしゃ」に傍点]ぎ出したりする。
 こうなっては隠れていることも、書物を読むこともめちゃめちゃです。駒井は一方ならぬ迷惑で、避難の場所を求めようとしたが、やはりかぎりある船中に、人と荷物でなかなかそのところがない。ひとり駒井が迷惑しているのみならず、乗合いの善良な客はみな迷惑しているのです。しかし、善良な客が進んで船内の平和を主張するには、どうも相手が悪過ぎる――船頭でさえ文句が附けられないのだから、暫く、無理を通して道理をひっこめておくより思案がないらしい。
 駒井甚三郎とても、相手をきらわないというかぎりはない。見て見ないふり[#「ふり」に傍点]のできるかぎりは、立ち入りたくない。しかし、この船中で見渡したところ、かりにも士分の列につらなっている身分のものは、自分のほかにはいないらしい。万一の場合、義において自分が、船内の平和を保つ役目を引受けなければならないのか、とそれが心がかりになりました。その時分、勝負がついたと見えて、船の上はひっくりかえるほどの騒ぎです。
 こういう場合の役まわりは、宇治山田の米友ならば適任かも知れないが、駒井甚三郎ではあまりに痛々しい。
 それを知らないで、調子づいた遊民どもは、全船をわが物顔に熱興している。
 彼等が、熱興だけならば、まだ我慢もできるが、船中の心あるものを迷惑がらせるのみならず、その善良な分子をも、この不良戯《ふりょうぎ》のうちへ引込まずにはおかないのが危険千万です。
 いわゆる良民のうちにも、下地《したじ》が好きで、意志がさのみ強くないものもあります。見ているうちに乗気になって、鋸山《のこぎりやま》へ石を仕切《しきり》に行く資本《もとで》を投げ出すものがないとはかぎらない。くろうと[#「くろうと」に傍点]の遊民どもも、実はそのわな[#「わな」に傍点]を仕掛けて待っている。
「へ、へ、へ、丁半は采《さい》コロにかぎるて、なぐささい[#「なぐささい」に傍点]、じゃあるめえな」
「じょうだんいいなさんな」
「五貫ばかり売ってもらいてえ」
 罷《まか》り出でたのは乗合いの中の素人《しろうと》にしては黒っぽく、黒人《くろうと》にしては人がよすぎる五十男。
「合点《がってん》だ、さあ五貫……」
 貸元が景気よくコマを売る。
「丁が余る、丁が余る……いかがです、旦那、負けときますぜ、やすめ[#「やすめ」に傍点]を一つお買いになっては……」
「へ、へ、へ」
 前のよりはいっそう人のよかりそうな、純乎《じゅんこ》たる素人が、ワナを眼の前につきつけられて、まんざらでもない心持。
 こうやって彼等の景気は増すばかりで、心あるものの気持は苦々《にがにが》しくなるばかりです。
 暫くしている間に、最初にしたり[#「したり」に傍点]面《がお》をして出た半黒人《はんくろうと》も、まんざら[#「まんざら」に傍点]でもない心持の純素人《じゅんしろうと》も、グルグルとグループの中へ捲き込まれてしまうと、中盆《なかぼん》が得意になって、
「運賦天賦《うんぷてんぷ》のものですから、本職だって勝つときまったものではなし、ドコへ福がぶっつ[#「ぶっつ」に傍点]かるかわ
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