てに来たのではないらしい。よくよくの深い仔細《しさい》があればこそだろうが、今まで兵馬には、そんなことを立入って、たずねてみるほどの余裕がないのでした。
 今となって、燈下にうつるこの女の呪《のろ》わしき影法師を見ると、何か知らん、強くわが胸を打つものがあるように思われてならぬ……男装した女。行くにも、住《とど》まるにも、覆面を取らぬ女……その生涯にはかぎりなき陰影がなければならぬ。道はちがうが、われも多年人を求むる身だ。こう思って兵馬が、新しい感興に駆《か》られた時に、
「あなた、もし、この刀の持主を御存じはありませぬか?」
といって不意に立ってお銀様が持ち出したのは、例の床の間の白鞘《しらさや》の一刀です。
 宇津木兵馬はその刀を見て、こんな刀が、この寺にあったのかと疑いました。
 行李をまとめていた手を休めて、お銀様の手からその刀を受取ると、多大の疑惑を以て、その刀を抜きにかかりました。
 兵馬はまだ刀を見て、その作者を誰といいあてるほどの眼識はない。けれども、刀の利鈍と、品質はわかる。ことに一たび実用に用いた刀……露骨にいえば、最近において人を斬ったことのある刀は、一見してそれとわかる。到るところの社会で、血のりを自慢の刀をよく見せられていたものだから――
 ところで、寺院には似げもない長物《ながもの》を、思いもかけぬ人の手で見せられて、鞘《さや》を払って見るといっそう驚目《きょうもく》に価するのは、その刀が最近において、まさしく人を斬った覚えのある刀に相違ないと見たからです。
 十分に拭いはかけたつもりだけれども、拭いが足りない。
 そこで兵馬は、まずこの刀の作者年代が、誰で、いつごろ、ということは念頭にのぼらないで、
「これは寺の刀ですか、それとも誰か持って来たのですか?」
「この床の間にあったのです」
「それでは、寺の物ですな」
「そうかも知れません」
 兵馬の疑点が一歩ずつ深く進んで行きました。身に寸鉄を帯びざることは、智識の誇りではあるにしても、寺に刀があって悪いという掟《おきて》はない。ただ不審なのは、近き既往においてこの刀が、まさしく血の味を知っていたとのことです。この寺の住持は老齢の身で、盗まれたものさえ、訴えては出ないほどの仁者である。それが、この刀を振り廻そうはずがない。それでは弁信か、茂太郎か。どちらにしても、想像の持って行き場がないではないか。まして、お雪ちゃんにおいてをや。
 同時に閃《ひら》めいたのは……閃めかなければならないのは、過ぐる夜のことで、山窩《さんか》のものだという悪漢が二人、この寺に押込んで、泊り合わせた兵馬のために傷つけられて逃げた、それが町の外《はず》れの火の見櫓の下でおおかみ[#「おおかみ」に傍点]に食われて死んでいた、罰《ばち》はテキ面だと人をして思わしめたのは、遠くもない先つ頃[#「先つ頃」に傍点]のことで、その当座は――今でも、誰も狼に食われたものと信じて疑わない。事実また狼に食われたものに相違ないが、当時、駈けつけて親しく検視をやってみた兵馬だけは、単に狼に食われただけで済ますことはできなかった。けれども、あの場合、狼に食われたことに一切を解決してしまった方が、民心を安んずる上において都合がよかったので、兵馬もこれをこばまなかった。しかしあれは、食われたのは後で、斬られたのが先である。一刀のもとに斬って捨てた手練のほどに戦《おのの》いたのは――戦くだけの素養のあったのは、たしか兵馬一人であったはず。
 これほどの斬り手がどこにひそ[#「ひそ」に傍点]んでいたか。これは今以て兵馬には解決がついていないところへ……見せられたこの刀が、激しい暗示を与える。
「誰がこの刀を持っていましたか?」
「それは、わたくしから、あなたにたずねているのです」
「いや、私にはわかりませぬ、あなたにお尋ねしなければなりません。あなたはこの刀の持主を尋ねて、この寺へおいでになったのですか、その人は、何という人で、何のためにこちらへ来たのですか」
「それは人を殺すことを何とも思わない人です……ですけれども、わたしはその人が忘れられないのです」
「あなたのおっしゃることがよくわかりませぬ」
「それでは、もう一つ付け加えましょう、その人は目の見えない人です……どういう縁故でこの寺へ参りましたかは存じませぬが、今はこの寺にはいませんそうで……温泉へ行ってしまったそうです」
「まだわかりませぬ、もう少しお聞かせ下さいまし」
 話が、それから進むと、お銀様は、ついに兵馬に向って、
「机竜之助」
の名を語らねばならなくなりました。そうでなくてさえ一語一語に、何かの暗示を強《し》いられていた兵馬は、最後に「机竜之助」の名を聞いて、ながめていた白刃を伝って、強烈な電気に打たれたように振い立ちました。
「あ、
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