じ曲りの、癇癪持《かんしゃくも》ちの、ひねくれ者のように見ている人もあります。勧農の詞《ことば》なんぞを読んで、聖人の域だと感心している人もあります。しかし、それはみんな方面観で、当っているといえば、凡《すべ》て当っているし、間違っているといえば、凡てが間違っているのです。本来、一茶のような人間に定義をつけるのが間違いなのです……ごらんなさい、これは天明から文政の間、まあ一茶の盛りの時代に出た全国俳諧師の番附ですが」
といって俳諧師は、行李《こうり》の中から番附を取り出して良斎に見せ、
「本来、風流に番附があるべきはずのものではありませんが……俗世間には、こういうものを拵《こしら》えたがる癖がありましてね。この番附には一茶が入っておりません、たまに入っているかと思えば、二段目ぐらいのところへ申しわけに顔を見せているだけです。しかし、これは仕方がありません、点取り宗匠連が金を使って、なるべく自分の名を大きくしておかないと商売になりませんからね、一つは商売上の自衛から出ているのですが、面白いのは、一茶の子孫連中が、その祖先の有難味にいっこう無頓着で、一茶が最後の息を引取った土蔵――それは今でも当時のままに残っておりますが、左様、土蔵といったところで、一間半に二間ぐらいのあら[#「あら」に傍点]壁作《かべづく》りのおんどる[#「おんどる」に傍点]みたようなもので、本宅が火事に逢ったものだから、一茶はこの土蔵の中に隠居をして、その一生涯を終りました、その土蔵の中へ、ジャガタラ芋《いも》を転がして置きました、たまに、わたしどもみたような人間が訪れて礼拝するものですから、その子孫連中があきれて、何のためにこんな土蔵を有難がるのか、わからない顔をしている有様が嬉しうございました……西洋の国では、大詩人が生れると、その遺蹟は国宝として大切に保護しているそうですが、日本では、一茶のあの土蔵も、やがて打壊されて、桑でも植えつけられるが落ちでしょう。一茶というものは、時代とところを離れて、いつまでも生きているものだから、遺蹟なんぞは、どうでもいいようなものですけれど……一茶の子孫の家ですか、それは柏原の北国街道に沿うて少し下ったところの軒並の百姓家ですが、今も申し上げた通り、自分の先祖の有難味を知らないところが無性《むしょう》に嬉しいものでした。家を見て廻ると、あなた、驚くじゃありませんか、流し元の窓や、唐紙《からかみ》の破れを繕《つくろ》った反古《ほぐ》をよくよく見ると、それがみんな一茶自筆の書捨てなんですよ。知らずにいる子孫は、いい反古紙のつもりで、それを穴ふさぎに利用したものです。あんまり驚いたもんですから、わたしどもはそれを丁寧にひっぺがしてもらって、こうして持って帰りました。それからこの渋団扇《しぶうちわ》、これもあぶなく風呂の焚付《たきつけ》にされるところでした。ごらんなさい、これに『木枯《こがら》しや隣といふも越後山』――これもまぎろう方《かた》なき一茶の自筆。それからここに付木《つけぎ》っ葉《ぱ》があります、これへ消炭《けしずみ》で書いたのが無類の記念です。一茶はああした生活をしながら、興が来ると、炉辺の燃えさしやなにかを取って、座右にありあわせたものに書きつけたのですが、こんなものをその子孫が私どもに、屑《くず》っ葉《ぱ》をくれるようにくれてしまいました。あんまり有難さに一両の金を出しますと、どうしても取らないのです、そういう不当利得を受くべきはずのものじゃないと思ってるんですな。これは、先祖の物を粗末にするというわけじゃない、その有難味のわからない純な心持が嬉しいのですね。それでも一茶自身の書いた発句帳、これはその頃の有名な俳人の句を各州に分けて認《したた》めたもの、下へは罫紙《けいし》を入れて、たんねんにしてあった、これと位牌《いはい》、真中に『釈一茶不退位』とあって、左右に年号のあるもの、これだけは大切に保存していました」
俳諧師は、話しながら、渋団扇だの、付木っ葉だのを取り出して良斎に見せました。
その時分、お雪ちゃんは、ただ一人で広い湯槽《ゆぶね》の中につかっておりました。
今、髪を洗ったばかりと見えて、それをいいかげんに背から湯槽の縁《ふち》へ載せ、首だけだして身体《からだ》をすっかりと湯につけています。
ここの湯槽は、一間に一間半ぐらいなのが八つあって、その八つの湯槽には、それぞれ名前がついているのだが、そのなかで疝気《せんき》の湯がいちばん熱く、綿の湯というのが名前の如く、やわらかくてぬるいことになっているが、それは盛りの時分のことで、今はどれも同じようなもので、お雪はやわらかな綿の湯につかりながら、白骨《しらほね》の名の起る白い湯槽《ゆぶね》の中を見ていました。この湯槽は石灰分がくッついているせいか、ど
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