れも白くおぞん[#「おぞん」に傍点]でいて、湯の水も白いように見えるが、流れ出す湯口を見ると無色透明で入浴の度毎に飲むと利《き》き目があるということだから、お雪も今、それを少しばかり飲んでみました。
 いつもならば、こうしていると誰か入りに来るのですが、今日は全宿の大部分は熊狩りに出動してしまっているし、三階の牡丹《ぼたん》の間へ間替えをした浮気ッぽい後家さん主従は、別段物争いの音も立てず、炉辺で話をしているのは国学者と俳諧師ですから、どう間違っても掴《つか》み合いになる心配はなし、昼日中《ひるひなか》が太古のような静かさで、お雪は自分一人がこの温泉にいるような、いい気持になってしまいました。
 そのうちに、お雪ちゃんが思い出しておかしくてたまらないのは、この間お雪が、竜之助から護身の手を教わったという話を聞いて、宿の留守番の嘉七という若い剽軽者《ひょうきんもの》が、
「わしらはハア、剣術もなにも知らねえが、敵が前から斬りかけて来た時は、ハア、額で受けらあ、後ろから斬りかけて来た時は背中で受けまさあ」
とすました顔でいったことです。
 お雪は、その時の嘉七の言葉と顔付がおかしいといって、ころげるほど笑いましたが、今もそれを思い出すと、ひとりおかしくなって、おかしくなって、ことに嘉七の額が少しおでこだものですから、額で受けらあという言葉が一層|利《き》いたので、今も湯槽《ゆぶね》の中でその思出し笑いが止まらないのです。

         三十三

 さてまた弁信法師は一面の琵琶を負うて、またもうらぶれ[#「うらぶれ」に傍点]の旅に出でました。
 ここは峡中《こうちゅう》の平原、遠く白根の山の雪を冠《かぶ》って雪に揺曳《ようえい》するところ。亭々たる松の木の下に立って杖をとどめて、悵然《ちょうぜん》として行く末とこし方をながめて立ち、
「茂ちゃん、お前のいるところはわたしには、ちゃんとわかっているようで、それで、どうしても逢えないの。今も、わたしのこの耳に、お前が、わたしに逢いたがっているその声が、ようく聞えるんですけれども、わたしにはお前のいるところがわからない」
 弁信は松の梢《こずえ》の上を仰いでこういいました。これはこの法師にとっては珍しいことではありません。いつでも、人なきところに人を置き、声なきに声を聞いては、それを有るものの如く応対するのが、このお饒舌《しゃべ》り坊主の一つの癖であります。
「ですから、昨日《きのう》もああしてお前に逢えないで過ぎました、今日も逢うことができないで暮れようと致します、明日はどうでしょう……どうかして、わたしはお前をたずねだして逢いたいと思うけれども、今日ここで逢えないように、明日|彼《か》のところで逢えないかも知れません、或いは今生《こんじょう》この世で逢えないのかも知れません……といってわたしは、それを悲しみは致しませんよ、今生に逢えなければ後生《ごしょう》で逢いましょう、ね、茂ちゃん」
 弁信はこういって暫く声を呑みましたが、また、ねんごろに言葉をつづけました。
「茂ちゃん、お前は後生というのを知っていますか……人間に生《しょう》を受けたこの世は長くても百年。五十年を定命《じょうみょう》と致すそうでございます。けれども生命の流れは曠劫《こうごう》より来《きた》って源《みなもと》を知ること能《あた》わず、未来際《みらいざい》に流れてその尽頭《じんとう》を知ることができないのですよ。五十年百年の命は、この長き生命の流れに比べますと、電光朝露《でんこうちょうろ》よりも、なお速《すみや》かなものだと思いませんか……後生がないという人は、一日の間に昼夜がないというのと同じことです、死は暫くの眠りでございます……」
 ここに至ると弁信は、茂太郎に向って語るのだか、それとも、他の見えざる我慾凡俗の衆生《しゅじょう》に向って語るのだか、わからない心持になったと見えて、
「皆様、人間の死は一つの眠りでございます、眠りの間にも生命は働いているのでございます……ただ一日の夜は、正確な時間の後に万人平等に来りますけれども、人間の死にはきまりというものがございません、死の来る時だけは、人間の力で知ることができず、制することもできません。皆様、それを恨むのは間違いです、人は病気で死んだ、災難で死んだといいますけれども、この世で病気に殺されたり、災難に殺されたりした者は一人もあるものではございません……いいえ、いいえ、お聞きなさい、そうです、そうです、人間は決して病気や災難で死んだものではありません、この世につかわされた運命が、そこで尽きたからそれで死ぬのです……今生《こんじょう》の善根が、他生《たしょう》の福徳となって現われぬということはなく、前世の禍根が、今生の業縁《ごうえん》となってむくわれぬというため
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