泉に温《ぬく》もって参らばやとやって参りました」
「それは、それは」
 熊狩りの一行は、この俳諧師の出現に機先を折られた様子。
 ともかく、この俳諧師一人をノコノコと平気で歩かせてよこした方の道には、とうてい熊はいないと鑑定しなければならぬ。
 そこで熊狩りの一隊は、陣形と策戦の方針を一変しなければならぬ。
 獲物中心の連中が、ガヤガヤとその陣形と策戦の方針を語り罵《ののし》りながら、方向転換をやっている時、見学の池田良斎は、やや離れて後からくっついて、新たに出現した俳諧師を生捕ってしまいました。
「あなた、俳諧をおやりなさるのですか」
「へ、へ、へ、少しばかり……」
 年の頃は、まだ三十幾つだろうが、その俳諧師らしい風采《ふうさい》が、年よりは老《ふ》けて見せた上に、言語挙動のすべてを一種の飄逸《ひょういつ》なものにして見せる。
「信州の柏原の一茶の旧蹟を尋ねて、只今その帰り道なのでございます」
「ははあ、なるほど、一茶はなかなか偉物《えらぶつ》ですね」
「え」
といって俳諧師は眼を円くし、
「失礼ながら、あなたにも[#「にも」に傍点]一茶の偉さがおわかりですか」
「それは、わたしにも[#「にも」に傍点]、いいものはいい、悪いものは悪いとうつりますよ」
 池田良斎が答えると、俳諧師は驟雨《にわかあめ》にでも逢ったように身顫《みぶる》いをして、
「では一茶の句集でもごらんになったことがございますか」
「あります、あります、『おらが春』を読みましたよ」
「おらが春――たのもしい、あなたが、そういう方とは存じませんでした」
 俳諧師は着物の襟をさしなおして恐悦がりました。仲間《ちゅうげん》みたような風采をしていた良斎の口から、一茶を褒《ほ》められて、自分の親類を褒められたような気になったのでしょう。有頂天《うちょうてん》になった俳諧師は、
「おらが春を本当に読んで下されば、一茶の生活と、人間と、発句《ほっく》の精神とはまずわかります、わかるにはわかりますがね、人によってそのわかり方の違うのはぜひもありません。あなたは、一茶という人間を、どういうふうにごらんになっていますか、それを承りたい」
「そうですね」
 池田良斎がこの質問に逢って、少しく首を捻《ひね》りますと、俳諧師はそれにかぶせて、
「どうですな、一茶の偉いというのは、太閤秀吉の偉いのとは違いましょう、日蓮上人の偉さとも違いましょう、また近代のこの信濃の国の佐久間象山の偉さとも違いましょう、一茶の偉さは、英雄豪傑としての偉さではありませんよ、人間としての偉さですよ、信濃の国の名物中の名物は俳諧寺一茶ですよ……いや、信濃の国だけではありません、この点において一茶と並び立つ人は天下にありません、一茶以前に一茶無く、一茶以後に一茶なしです……」
 俳諧師の言葉に熱を帯びてきました。
 一方の熊狩りはどこへ行ったか姿が見えません。かれらは一頭の熊のために、一頭の熊が与うる生活の資料のために、血眼《ちまなこ》になっているから、山を眼中に置かない。
 こちらは歌人――とは断定できないが――と俳諧師とは、古人を論じて来時の道を忘るるの有様です。
 しかし、どうやら間違いなく二人は白骨の宿へたどりつくと、池田良斎が東道《とうどう》ぶりで、炉辺に焚火の御馳走を始めました。
 ところで、この俳諧師の、俳諧寺一茶に対する執着は容易に去らない。
「古人は咳唾《がいだ》珠《たま》を成すということをいいましたが、一茶のは咳唾どころじゃありません、呼吸がみな発句《ほっく》になっているのです、怒れば怒ったものが発句であり、泣けば泣いたのが発句となり……横のものを縦にすれば、それが発句となり、縦のものを横に寝かせば、それがまた発句です。その軽妙なること俳句数百年間、僅かに似たる者だに見ずと、時代を飛び越した後人がいいましたけれども、それでも言い足りません。一茶の句は滑稽味が多いとおっしゃるのですか。それはやはりあなたも素人観《しろうとかん》の御多分に漏れません。よく一茶を惟然《いねん》や大江丸《おおえまる》に比較して、滑稽詩人の中へ素人《しろうと》が入れたがります。『おらが春』の序文を書いた四山人というのが、それでも、さすがに眼があって、これを一休、白隠と並べて見ました。それでも足りないのです。また一茶の特色を、滑稽と、軽妙と、慈愛との、三つに分けた人もあります、慈愛を加えたのが一見識でございましょう。一茶の句をすべて通覧してごらんになると、森羅万象がことごとく詠《よ》まれぬというはありません、その同情が、蚤《のみ》、虱《しらみ》、蠅《はえ》、ぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]の類《たぐい》にまで及んでいることを見ないわけにはゆきますまい。それとまた一方に、一茶を皮肉屋の親玉のように見ている人もあります。つむ
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