を敵と思い込んで、抜くという知恵がなく、かえって自分で抉《えぐ》って、自分で死ぬという。
熊の襲来で、万葉集の講義が一段落となりました。
そうしてこの猟師の報告によって、件《くだん》の熊の運命について、おのおのその見るところを語りはじめました。ある者は、熊というものは到底、刺された槍を抜き取るだけの知恵のあるものではない。浅かれ、深かれ、槍を立てた以上は、自分で抉って、自分で傷を深くするだけの器量しかないのだから、これは当然どこかに倒れているに相違ないと言う。
ある者はまた、それも程度問題で、突き方が非常に浅ければ振りもぎってしまうし、木の根や岩角に当って、おのずから抜け去ることもあるのだから、無事に逃げ去ってしまったろうという。
どっちにしても、もう少しその運命を見届けて来なかった猟師に落度がある――という結論になって、猟師が苦笑いする。
池田良斎はそれを聞いて、
「とにかく、熊の下腹まで行って槍を突き上げるとは非常な冒険だ、へたに運命を見届けているより、獲物《えもの》は外《そ》れても、逃げて帰ったのが何よりだ」
と言いましたけれども、猟師は、なかなか諦《あきら》めきれないらしい。
宿の留守居連中も集まって来て、諦められない猟師を、いっそう諦められないものにする――というのは、熊一頭を得れば一冬は楽に過せる、山に住む人の余得として、これより大きいのはない、それを取外《とりはず》した猟師のために、やれやれ気の毒なことをしたと悔みを言うものですから、猟師がいよいよ諦めきれなくなりました。
「ちぇッ、もしかすると、そこいらに斃《たお》れていやがるか知れねえ、もう一ぺん出直してみよう」
この連中にとっては、自分たちの生命の危険よりは、熊一頭が惜しいように見える。猟師は、そこでふたたび錆槍《さびやり》をかつぎ出しました。こうなると力をつけた連中も気を揃えて、それに加勢をすることになると、最初には、たしなめた池田良斎すらが、この機会にその熊狩見物を面白いことにして、同行をすることになると、万葉集の講演が、そのままお雪ちゃんだけを残して、熊狩隊に変ってしまいました。
そこで宿に秘蔵の、鉄砲一挺も持ち出されることになる。この鉄砲とても、いつぞや、塩尻峠のいのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原で持ち出された業物《わざもの》と、弟《てい》たり難く、兄《けい》たり難い代物《しろもの》ですが、それを持ち出した留守居の源五の腕だけは、あの時の一軒屋の亭主よりも上らしい。
こうして鉄砲が一挺に槍が二本、同勢六人で押し出した熊狩隊は、行く行く熊の話で持切りです。
熊は必ず一頭では歩かない、親の行くところには必ず子が従うということ。熊の掌《てのひら》の肉がばかに美味《うま》いということ。熊の胆《い》の相場。熊は山を歩くにも、猪や、鹿のように、どこでもかまわぬという歩き方をしない、だから、ここを追えばここへ出るという待ち場所はちゃんときまっている――というようなことを話し合う。
池田良斎はそれを聞いて、商売商売だと思う。よく朝鮮征伐の物語で、勇士が虎に接近した昔話を読むが、この辺の猟師もそれに負けないことをやる。そうしてかれらは、それを冒険だとも、手柄《てがら》だとも思っていない。かえってその冒険よりも、熊一頭の所得を偉大なものだと信じていることを不思議がる。
暫く進んで、ようやく山深く分け入った時、
「ソラアいた、いた――ソレ、あすこで動いてるのを見ろやい」
一人が叫び出すと、すべての眼の色が緊張する。
「一発ブッくらわしてみろ」
そこに獲物《えもの》の影を認めて、早くも追出しの鉄砲を一発打つと、意外にも向う遥かに人の声、
「人間だよ、人間が一人いるから、気をつけておくんなさいよ」
三十二
そこで、熊狩りの一隊が呆《あき》れました。
彼等が呆れているところへ、お椀帽子《わんぼうし》を冠《かぶ》って、被布《ひふ》を着た旅の男が一人、のこのこと歩いてくるのは、「人間ですよ」と自ら保証した通り、人間が一人、抜からぬ顔をして現われて来ました。
「一体、どうしたんです、旅のお客さん、今時分こんなところを、どこから来てどこに行くのです……危ないこった」
と熊狩りが狩り出したその人間を取巻いて、詰問の体《てい》。
「わしどもは、旅の俳諧師《はいかいし》でございましてね、このたび、信州の柏原《かしわばら》の一茶宗匠《いっさそうしょう》の発祥地を尋ねましてからに、これから飛騨《ひだ》の国へ出で、美濃《みの》から近江《おうみ》と、こういう順で参らばやと存じて、この山越えを致しましたものでございますが……ふと絵図面を見まして、これよりわずかのところに白骨温泉のあることを承知致しましてからに、道をまげて、これよりひとつ、その白骨の温
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