そうかも知れませんが……わたしは女ですもの。それに先生……」
と言ってお雪は人形の衣裳の前を合わせ、
「あなたは、いったい、山登りをしてどうなさるの、いい景色をごらんになるわけではなし、朝の御来光を拝みなさるわけではなし……それこそ、骨折り損じゃありませんか。それよりは、おとなしく、炬燵《こたつ》に入って休んでおいでなさい、わたしが面白い本を読んでお聞かせしますから……」
お雪は慰め顔に言いましたが、竜之助が何とも返事をしませんから、なんだか気の毒になって、
「ねえ、先生、わたしが今、何をしているか御存じ?」
「知りません」
「それでも当ててごらんなさい」
「歌を作っているのでしょう」
「いいえ」
「それではお裁縫《しごと》?」
「いいえ」
「わからない」
「あのね……お人形さんに着物を拵《こしら》えて上げているところなのよ、さっき、梅の間の戸棚をあけて見ますと、この衣裳人形がありましたから、有合わせの切れを集めて、こんなに拵えました」
竜之助は、それを聞いて驚いてしまいました。この娘は自分の周囲に、今、どんな人間がいて、その立場がどうであるかということはいっこう念頭になく、深山の奥で、近づく限りの人を友とし、知り得る限りのことを学び、愛すべきものを愛し、弄《もてあそ》ぶべきものを弄ぼうとして、恐るることを知らない。
この間、池田良斎は、お雪ちゃんの持って来た万葉集を見てこういいました。
「ああ、これは寛永二十年の活字本で珍しいものだ、今日の万葉集はすべてこれを底本《ていほん》にしているが、普通には千蔭《ちかげ》の略解本《りゃくげぼん》が用いられている、よほど好書家でないとこれを持っていない」
そうして、北原賢次とお雪ちゃんのために、日本の活字の来歴を一通り話したことでありました。同時に、活字本と、普通の木版本の相違をも、よく説明して聞かせたことでありました。
活字は、すべて一字一字ずつとりはずしのできるもの。普通の木版は、一面に文章そのままを平彫《ひらぼり》にしてしまうもの。良斎の説によると、日本の活字の最初は、平安朝以前にあったが、最も盛んなのは徳川家康の前後ということ。また近代西洋式の流し込みの活字を創造したのは長崎の人、本木昌造ということになっているが、実は播磨《はりま》の人、大鳥|圭介《けいすけ》がそれより以前に実行している……というようなことまで知っているところを見ると、この人は国学のみならず、現代の知識にもなかなか明るい人と見える。
その翌日から万葉集の講義が始まりましたが、その講義は良斎らの座敷を選ばず、名物の炬燵《こたつ》を仲介することもなく、この炉辺をそのまま充《あ》てることになりました。
一冊の万葉集を真中に置いて、炉の一方には良斎先生が陣取り、それと相対して北原賢次とお雪ちゃん――陪聴《ばいちょう》の役として留守番の喜平次も顔を出せば、お雪ちゃんの連れの久助さんも並んでいる。
池田良斎は、燃えさしの粗朶《そだ》の細いところを程よく切って、それをやや遠くの方から万葉集の字面に走らせ、
[#ここから2字下げ]
こもよ
みこもち
ふぐしもよ
みふぐしもち
この岡に
菜《な》摘《つ》ます児《こ》
家きかな
名のらさね
そらみつ
やまとの国は
おしなべて
吾こそをれ
しきなべて
吾こそませ
われこそはのらめ
家をも名をも
[#ここで字下げ終わり]
一通り訓《よみ》をして、それからいちいち字義の解釈を下して、全体の説明にうつりました。
「この歌は、雄略天皇様が、あるところの岡のあたりで、若菜を摘んでいる愛らしい乙女を呼びかけておよみになった歌で、これ、そこに籠《かご》を持ちくし[#「くし」に傍点]を持って菜を摘んでいる愛らしい乙女よ、お前の家はどこじゃ、聞きたいものじゃ、名乗れ、自分はこの国を支配する天皇であるぞよ……というお言葉、いかにも上代の平和にして素朴な光景、一国の元首が、名もなき乙女に呼びかけ給う壮大にして、優美な情調が一首の上に躍動している。すべて万葉の歌は……」
と講義半ばのところへ、大戸を押し開いて、あわただしく駆け込んだものがありましたから、講義が一時中止になりました。
「惜しいことをした、ホンのもう一息のところで……」
と言って、講義半ばの空気を壊したことをも頓着せず、炉辺へしがみつくようにやって来て、
「熊を一つ取逃がしてしまった、突くにはうまく突いたが、槍がよれ[#「よれ」に傍点]たから外《そ》れちまった、危ねえところ――」
猟師は手首の負傷を撫でて、すんでのことに熊の口から助かって、命からがら逃げて来た記念を見せる。鉄砲を持たないこの辺の猟師は、熊を見つけると充分に引寄せて、のしかかって来る奴を下から槍で胸か腹を突く、突っ込んだ瞬間に逃げる――そのあとで熊は突かれた槍
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