はお雪の案内で、そこまで散歩を試みたことがあるのです。さればこそ、今日はこうして手放しで、山谷の間を、ひとり歩きができるということになっているのでしょう。
 白昼に見るせいか、今日はたしかに人間の歩き方になっている。本体を宿へ置いて、遊魂そのものだけが街頭に人を斬って歩く時とは違い、少なくとも人間そのものが、足を大地に踏まえて歩いているように見える。
 方二町ばかりの小沼の岸に立った時に、乗鞍《のりくら》ヶ岳《たけ》が、森林の上にその真白な背を現わしました。雪をかぶった乗鞍ヶ岳の背は、名そのままの銀鞍《ぎんあん》です。銀鞍があって白馬はいずこへ行った。それはこれより北に奔逃《ほんとう》して、越後ざかいに姿を隠している。
 沼に沿うて銀鞍が再び森に沈んだところに、いわゆる鐙小屋《あぶみごや》があります。
 竜之助はこの間お雪に導かれて、ここに来た時のことを思い出しました。
「ねえ、先生、ここに綺麗《きれい》なお池がありますのよ。ごらんなさい、この水の澄んでいて静かなこと、透き通るようですわ。あれ、大きな魚が……山魚《やまめ》でしょうか。おお、つめたい、この水のつめたいことをごらんなさい、指が切れるようです、あたりまえの水の何倍つめたいことでしょう。後ろを振返ってごらんなさい、真白な山、あれが乗鞍ヶ岳ですとさ。先生、あなたは、あの山に登ってみたいとお思いにならない……お思いになっても駄目ですわね、あなたには登れませんから。あたし、女でも登ってみたいと思いますわ。今は、雪があって登れませんから、来年、雪が解けた時分には、きっと登ってみますわ。あのお山は一万尺からあるんですってね……木曾の御岳山とどちらかだっていうじゃありませんか。あなたは一万尺の山にお登りになったことがありますか。そらごらんなさい、この金剛杖にも『一万尺権現池』と焼印がおしてありますよ。ああいけませんでした、あなたにはおわかりにならない、あの高い山も、この綺麗な水も、金剛杖におされた焼印も……ほんとにお気の毒さまですね」
と言われたのはちょうど、このところです。
 山登りをする者が誰も携えて行く金剛杖、八角に削った五尺余りなのを、今日も竜之助は携えて来ました。
 ここは日当りがことによくて、風の当りも少ない。竜之助は目的の鐙小屋《あぶみごや》へ行くことを忘れて、暫くそこに立っていました。
 高山の麓《ふもと》、腹、頂《いただき》などには、太古以来といっていいほどの小屋掛けが、思いがけないところに散在する。それがある時は殺生小屋《せっしょうごや》であり、ある時は坊主小屋であり、あるいは神仏混淆《しんぶつこんこう》に似たる室堂《むろどう》であったりする。
 由来、坊主小屋は樹下に眠り、石上を枕とする捨身無一物の出家が、山岳を行く時にかりの宿り[#「宿り」に傍点]と定めた名残《なごり》で、殺生小屋は山をめぐって、生きとし生けるものを殺しつくす生業《なりわい》の猟師が、糧《かて》を置くところと定めていたものだという。持戒者と殺生者とが隣合わせに住むのは、あながち塵の浮世の巷《ちまた》のみではない、高山の上にも、人間が足あとをつける限り、このアイロニーが絶えなかったものと見える。
 ここ、小梨平、無名《ななし》の沼のほとりに立てられた鐙小屋は、いつの世、誰によって、何の目的のために立てられたかわからないが、今でも人が住んでいる。
 けれども、この鐙小屋までは、まだこの沼づたいに相当の距離がある。無名《ななし》の沼の岸を机竜之助は金剛杖をついてではない、それを提げて――静かに歩んで行くと、不意に空《くう》を切って飛んで来た礫《つぶて》が、鏡のように静かで、そして透き通る無名《ななし》の池の中に落ちて、ザンブと音を立てて波紋が、ゆるやかに広がりました。
 そこで、竜之助はハッとして歩みをとどめました。仰いで見たところで、岩石の落ち来るべきところではない、俯《ふ》して見たところで、人の気配のないところ。
 そこで竜之助は歩みをとどめて、石の降って来た方面に面《おもて》を振向けると、第二に飛んで来た石が竜之助の面をかすめて、再び沼の中に落ちて音を立てました。
 第一のものは、いかなるところから、いかなるハズミで飛んで来た外《そ》れ石《いし》か知れないが、第二のものは、たしかに心あってしたものに相違ない。何か自分をめあてに、仕掛ける意図があっての仕業《しわざ》に相違ない。それにしては力の無い石だと思いました。けれども、竜之助の心が動きました。そうして手に提げていた金剛杖の真中を取って、矢止めの型で軽く振ってみた。その杖先に第三の石が飛んで来てカチリと当って下に落ちました。
「ホホホ、驚いたでしょう」
と行手に立って言葉をかけたのは、聞覚えのある声です。いつのまにか叢《くさむら》の上に立
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