ってこちらを見ているのは、例の、飛騨の高山の穀屋《こくや》の後家さんであります。その声を聞くと、竜之助が身顫《みぶる》いをしました。今の悪戯《いたずら》はこいつだ。年甲斐《としがい》もない噪《はしゃ》ぎ方だ。
「ねえ、先生」
と言ってこの後家さんは、そろそろと少し高い所から下りて来て、なれなれしく話しかけました。竜之助を先生と呼ぶのは、お雪ちゃんにカブれたものでしょう。
「貴船様《きふねさま》の前まで出て見ますと、あなたのこちらへおいでになるのが、よく見えたものですから、急いで、あとを追っかけて参りましたよ」
竜之助のそば近く歩んで来るこの水っぽい後家さんは、よほど急いで来たと見えて、額のあたりに汗がにじみ、まだ息がせいせいしている。
誰にたのまれて、そう急いで来たのだ。
「ねえ、先生」
と後家さんは、いよいよなれなれしく近づいて来て、息を切り、
「今日はお一人ですか。鐙小屋《あぶみごや》へいらっしゃるのでしょう。留守ですよ、あそこは。神主様は室堂《むろどう》へ行って、おりません……ええ、先廻りをして見届けて参りました。この間はお雪ちゃんに手を引いていただいておいでになりましたのに、今日はお一人でよく道がおわかりなさいましたこと。鐙小屋においでになっても詰りませんから、このお池の周囲《まわり》を歩いてごらんになりませんか。いいお天気で、ホカホカとして春先のような心持が致しますね。このお池を廻って御一緒に宿へ帰りましょう。それともこんなお婆さんと一緒ではおいや……」
竜之助でなくてもゾッとしましょう。
無名《ななし》の沼のほとりを、肪《あぶら》ぎった後家婆さんと、竜之助とは、ブラブラと歩いて行きました。
「ねえ、先生、あなたはこの間、お雪ちゃんに護身の手というのを教えておいでになりましたね、あれを、わたしにも教えて下さいましな」
「お前さんが習ってなんにする」
「覚えておいて害にはなりますまい、いざという時……」
「そうです、覚えておいて害にはなりますまい。けれども、あれは若い娘たちのためにするものです。若い時分には、どうも危険がありがちだから、もしこういう場合には、こうして手を外《はず》すとか、この場合にはこうして敵を突くとか、二ツ三ツの心得を、お雪ちゃんに話してみせただけのものです」
「若い時分に限ったことはございますまい、誰だって、あなた、いつ、どういう危ない目に逢うか知れたものじゃありません」
「ははあ……」
竜之助はそれを聞き流しながら、
「お前さんなんぞは、かっぷくがいいから、そのかっぷくで敵を押しつぶしてしまったら、たいがいの男はつぶれてしまうでしょう」
「御冗談《ごじょうだん》を……」
後家さんは、まじめに取合われないのを、ちょっとすねてみましたが、
「ねえ、先生」
暫くして、また改まったように、甘えた口調《くちょう》で呼びかけました。
「ねえ、先生、あなたは人を殺したことがおありなさる?」
後家さんの肪《あぶら》ぎった面《かお》に、小さい銀色の粒が浮いて来ました。
「何ですって?」
竜之助は、わざと聞き耳を立てました。
「先生、あなたは人を殺したことがおありなさるでしょう」
「どうして、そんなことを聞くのです」
「でも……」
ちょうど、道が沼の岸を離れて林の中に入る時分に、後家婆さんは、後ろの方をそっと顧みて、
「それでも、人を殺してみないと、度胸が定まらないっていうじゃありませんか」
「そんなはずはあるまい、人を殺さなくても天性度胸のいい者はいい、臆気《おくびょう》な奴が、かえって大事をしでかすこともあるものさ」
「それはそうでしょう。けれどいちど、人を殺すと、それから毒を食《くら》えば皿までという気になって、腹が出来るというじゃありませんか」
「そうか知ら」
「真剣ですよ、先生、わたしは、真剣で先生にお話し申しもし、先生からお聞き申しもしたいものですから、この通り、話しながらも動悸《どうき》が高くなっているのですよ」
「そうかといって、おれは人を殺しました、と答える奴もあるまい」
「そうおっしゃられてしまえば、それまでですけれど、先生には、わたし、このことをお尋ねしてもいいと思っているから、それでお尋ねしているんですよ。つまり、わたしは、あなたは、たしかに人を殺しておいでなさると見込みをつけてしまったものですから、こんなことを臆面もなくお聞き申すんですが、あなたがお返事をして下さらなければ、わたしの方から白状してみましょうか。これでも、わたし、人殺しをしたことがありますのよ」
こういって、後家さんは忙がしそうに、四方《あたり》を盗み見ましたけれど、そこは一鳥も鳴かぬ無人のさかいであります。
強《し》いて人に物を問いかけるのは、必ず自分の身に相当の不安があるからであります。
「幾人!」
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