の変った情味がゆたかです。
 浅吉は吸い入れられるように、その絵本に見入りました。
 お雪ちゃんという子も、これだから油断がならない。
 浅吉は怖る怖る、その折本を下へ持ちおろして、最初から一枚一枚見てゆくうちに、浮世絵の情味が、自分の身《からだ》の中に溶け込んで、しばらく、われを忘れてしまいました。
「お雪ちゃんという子もわからない子だ、無邪気で人なつこく、同情心が深くって、神様のような心持かと思っていれば、こんな本を内密《ないしょ》で見ているんだもの。それでも、年頃だから、こんな美しい当世風の浮世絵を見ていれば、悪い気持もしないのでしょう、にくらしい」
 浅吉はこの時、お雪を憎らしい子だと思いはじめました。
 事実、浅吉にあっては、このごろ中からお雪ちゃんというものが、読めたような、読めないような、心持になっているのです。
 もう、年ごろなのに、無邪気で清々《せいせい》とした子供のような気分――かと思っていると、なにもかも見抜いて、粋《すい》を通しているようなところもあるし――あの目の見えない人を先生と呼んでいるが、何の先生だか、浅吉にはよくわからない。親類の人でもあるようだし、全く他人でもあるようだし、隔てのないほどにあまえた口を利《き》くかと思えば、全く改まった扱いをしているのを見ることもあるし――私たちの間だって、つまり主人の後家さんの性質や、心持まで、ちゃんとのみこんでいながら、その心持で外《そ》らさず附合っているのかと思えば、全くその辺のことは御存じがなく、ただ自分は、むずかしい御主人のお供をして来ているのだとばっかり、信じきっているようでもある。
 お雪ちゃんという子はわからない子だ、と浅吉は、これまでも幾度か首をひねらせられたのですが、今という今、ほんとに憎らしい子だ、と思いはじめました。
 けれどもなお、一枚一枚と見てゆくうちに、お雪ちゃんを憎らしいと思う心が、いつか知らず絵本の中の主人公に溶け込んで、ついには今様源氏の光《ひかる》の君《きみ》が憎らしくなりました。女という女から可愛がったり、可愛がられたり、さして深い煩悩《ぼんのう》も感ぜず、大した罪という自覚もないくらいだから、罪も作らず、最後には自分の可愛がった女を集めて、いちいちに局《つぼね》を与え、それに花を作らせて楽しむという生涯。男と生れたからには、この光源氏の君のようなのが男冥利《おとこみょうり》の頂上だと、浅吉は、羨《うらや》ましくなりました。そこで勢い浅吉は、一人の後家さんから完全に圧服されてしまって、グウの音も出ない自分というものの意気地無さかげんに、軽少ながら憤りの心をさえ起してみました。
「私だって男だ」
という義憤がむかむかと湧き起ったのは、この男としては珍しいことです。といって、こういう男の義憤も、一概に軽んずるというわけにはゆきますまい。
「私だって男だ」
 浅吉は、わくわくとして、ひとり憤りを発していましたが、まだ誰も帰って来ません。自分ひとり、腹を立っているのだということがわかりました。

         三十

 机竜之助はこの日、湯の宿を出て小梨平の方へ歩いて行きました。
 かたばみの紋のついた黒の着流しのままで、頭と面《かお》は、頭巾《ずきん》ですっぽり[#「すっぽり」に傍点]とつつんではいるが、その頭巾なるものが、宗十郎というものでもなく、山岡でもなく、兜頭巾《かぶとずきん》でもなく、また山国でよく用うるかんぜん[#「かんぜん」に傍点]帽子というものでもなく、ただ、あたりまえの黒縮緬《くろちりめん》の女頭巾を、ぐるぐるとまいて山法師のかとう[#「かとう」に傍点]を見るように、眼ばかり出したものです。
 四面はみな雪ですけれども、山ふところは小春日和《こはるびより》。
 白樺や桂《かつら》の木の多いところをくぐり、ツガザクラ[#「ツガザクラ」に傍点]の生えたところをさまよい、渓流に逢っては石をたたいて見、丸木橋へ来ては暫くその尺度をうかがって、スルスルと渡りきり、雑草多きところでは衣裳を裾模様のように染め、ある時は呼吸せわしく、ある時は寛々《ゆるゆる》として、上りつ下りつして行きました。
 このごろは、だいぶ身体《からだ》もよくなったせいでしょう、こうしているところを前から見ても、横から見ても、誰も病人と見る者はないほどに、姿勢もしゃん[#「しゃん」に傍点]としているし、カーヴの甚だ急に変ずるところでない限り、杖を使わないで歩いて行くところを見れば、誰も、これが盲目《めくら》の人だとはおもいますまい。
 竜之助の、さして行かんとするところは小梨平に違いない。それより遠くへは冒険になるし、それより近いところには、たずねて行って見ようとするものもない。
 小梨平には鐙小屋《あぶみごや》というのがありました。先日、竜之助
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