あなたのところの先生にお髪《ぐし》を上げておやりなさいって、お内儀さんからいいつけられたのですよ」
「まあ、うちの先生に?」
「ええ」
 浅吉は浮かぬ面《かお》に、一種の恐怖をさえ浮べておりました。
「それは御苦労さま」
「ええ、お前は髪を結《ゆ》うのが上手だから、先生の髪を結ってお上げなさいと、お内儀《かみ》さんにいいつけられたものですから……」
「そうですか、それは御苦労さまでした」
 お雪は愛嬌にいって、浅吉と連れ立って自分の部屋へやって来ましたが、そこへ近づくと、浅吉の恐怖と嫌厭《けんえん》の色が一層深くなって、ゾッと身ぶるいをしました。
 浅吉をつれて自分の部屋へ戻って来たお雪は、障子をあけて見て、
「おや、先生がいらっしゃらない」
 いるとばかり思っていた机竜之助がいませんでしたから、お雪も案外に思い、浅吉も、
「おや、どちらへおいでになったでしょう」
 櫛箱をさげたまま、ぼんやり立っていると、お雪が先へ入って、
「風呂にでもおいでになったのか知ら。まあ、お入りなさい、浅吉さん」
 そこで二人は入りました。浅吉はぼんやりと櫛箱をそこに置いて、炬燵《こたつ》の前にかしこまっていると、お雪は戸棚をあけて行李《こうり》を取り出し、その中から、あれか、これか、と書物をさがしました。
「お雪さん」
 それを、ぼんやり見ながら浅吉が言葉をかけたものですから、お雪は本をさがしながら、
「はい」
「あの、お雪さん、済みませんが、油を持っておいででしたら、少し分けて下さいませんか……頭へつける油を」
「油ですか、ええあります、あります、油なら上等のがありますよ」
「切らしてしまったものですからね、どうぞ、少しばかり」
「油なら上等の椿油がありますよ」
「椿油ですか」
「ええ」
「それは結構ですね」
「それも本物の大島の椿油なんですよ、伊豆の伊東の人からいただいたのがありましたから、それを持って参りました、まだたくさんあります」
「そうですか、大島の椿油なら本物です、ずいぶん、椿油といってもイカサマ[#「イカサマ」に傍点]ものがありますからね」
「それにね、髪へつけるばかりじゃありません、刀の油とぎをするのに、椿油がいちばんいいんですってね」
「そうですか……刀には丁子《ちょうじ》の油がいいと聞きましたが、椿油でもいいのですか」
「椿の方がいいんですとさ」
といいながら、お雪は戸棚の隅から油壺に入れた椿の油を取り出して、浅吉の前に置き、
「たくさんお使いなさいまし」
「有難うございます」
 お雪は再び書物の数を読んで、都合六冊ばかりの本を取揃えると、
「では、わたし、ちょっと下へ行って参りますから、一人でお待ちなすって下さい」
「お雪ちゃん」
 お雪が立って下へ行こうとする袖を、引き留めるようにして浅吉が、
「お雪ちゃん、もう少しここにいて下さいな」
「でも、わたし、よい歌の先生が見つかりましたものですから、教えていただきたいと思います」
「それにしても、私は一人じゃ淋しいから、少しの間ここにいて下さいな」
「いいえ、うちの先生もそのうちに帰るでしょうから」
「お雪ちゃん……後生《ごしょう》ですから」
 浅吉は拝むようにいいましたけれども、お雪は笑って取合わず、
「浅吉さん、弱い人ね、もう少し強くならないと、鼠に引かれちまいますよ」
 お雪は、新しい知識のあこがれがいっぱいで、本を抱えると、欣々《いそいそ》として下へおりて行きました。
 それを追いすがるほどの元気もなく、そのあと浅吉は、ぼんやりとして、お雪から与えられた備前焼の油壺を取り上げて、そっと香いをかいでみました。
 そうして、また油壺を前にして、ぼんやりと、かしこまっていましたが、誰も戻っては来ません。当の人がいないのを幸いに、立帰るほどの元気もなく、主なき炬燵《こたつ》に膝を入れるほどの勇気もなく、油壺を前にして、ぼんやりと、立っていいのか、坐っていいのか、わからなくなりました。
 こうして取残された男妾《おとこめかけ》の浅吉は、いくら待っても、誰も戻っては来ません。
 待ちあぐんでしまった浅吉は、しばらくのこと、ひとまず引取って、また出直そうという気になりました。
 そこで、油壺を取り上げて、戸棚へ仕舞い込んでおこうとする途端に、行李《こうり》の中で、パッと自分の眼を射るものを見つけました。
 お雪が取急いだものですから、行李の中に残された本が整理しきれず、手軽に投げ込まれてあった中に、眼を眩惑《げんわく》するような、極彩色の浮世絵の折本が一冊、ほころびかかっているのを見たものですから、油壺をそこへ差置くと、その折本をたぐってみました。
 見れば、それは源氏の五十余帖を当世風に描いたもので、絵は二代豊国あたりの筆。版も、刷りも、なかなか精巧で、そこらあたりの安本とは、趣
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