いました、あの池田先生は良斎といって、京都では国学の方で指折りの先生だから、よく教えておもらいなさいって……ですから、先生にお願いに上りました」
お雪からこういわれて、池田良斎先生が頭を掻きました。
「守口の奴、よけいなことをいったものだ、なるほど、少しは国学もやるにはやりましたが、指折りの先生だなんて、いやはや」
「先生、わたくしは和歌《うた》をつくりたいと思っていますけれど、思うように出来ませんが、どうしたらよろしうございましょう」
「それは御同様ですよ。また思うように和歌《うた》が出来た日には、人麿《ひとまろ》や、貫之《つらゆき》が泣きますからね」
「それはそうでしょうけれども、せめて形だけでも、ほんの門の中へ入ってみるだけでもよろしいんです……和歌《うた》を作るには、まずどういう順序で作ったらよろしうございましょう、それからお聞かせ下さいまし」
「そうですね……ああいうものは天分ですからね、上手《じょうず》に手引をしてもらったからといって、またたくさんに本を読んだからといって、よい歌が作れるというわけのものではありませんが……まあ多く古今の人の名作を読み、同時に自分も多く作り、そうして、しかるべき人に見てもらうのが何よりでしょうと思います。今まで何かお作りになりましたか、ここへ来て何かお詠《よ》みになりましたかね、お作があるなら、それを拝見したいものです」
池田は諄々《じゅんじゅん》として答えました。
「二ツ三ツ、詠んでみましたが、とても人様にお目にかけられるような品ではありません」
「遠慮はいけませんよ、出過ぎるのはなおいけませんけれど、人に見られるのを恥かしがっては上達はしません」
「それでは後刻お目にかけましょうが、先生、古人の和歌では、どなたをお手本にしたら、よろしうございましょうか」
「誰を……というのは、ちょっと返答に困りますが、万葉集は読まねばなりません。万葉を御覧になりましたか」
「あ、万葉集はここへ持って参りました」
「それは、よい本をお持ちでした、万葉集一巻あれば、三年この山籠《やまごも》りをしていても、飽きるということはありますまい」
「ですけれども、先生、わたくしには、まだ万葉集の有難味がよくわかりませぬ」
「追々に研究してごらんなさい……私共にもまだまだ、ほんとうに万葉集を読みこなす力は無いのです。この冬仕事にひとつ、お互いにあれを読み砕いてみましょうか」
「お待ち下さい、今、本を持って来てみますから」
お雪は欣然《きんぜん》として、立って本を取りに自分の部屋へ出かけました。
そのあとで、猪《いのしし》が煮え出したものですから、池田良斎といわれたのは箸の先で、ちょいとつまんで風味を試み、
「うまい」
と言いました。北原謙次が、
「山陽の耶馬渓図巻《やばけいずかん》の記を読むと、猪を食うところがありますね」
「そうそう、今でもそのあとに、喫猪亭《きっちょてい》というのがある」
「耶馬渓へおいでになりましたか」
「行きました」
「どうですか、いいところですか」
「そうさ、人によってだが、わたしはあまり好かないよ。山陽にいわせると、天下第一等のところになっているが、山陽という男が、その実あんまり歩いてはいないのだからな。それに漢学者流の誇張で書きまくっているのだから、行って見て感心する人より、失望する者が多いだろう」
「山陽は足跡《そくせき》海内《かいだい》にあまねしとか、半ばすとか自慢をしていますが、この辺までは来たことはないでしょう」
「ないとも。耶馬渓を見てさえあのくらいだから、この辺から神高坂《かみこうざか》、穂高、槍、大天井あたりの景色を見せたら、仰天して、心臓を破裂させてしまうかも知れない。妙義だって、よくは見ていないのだ……雲霧晦冥《うんむかいめい》の時の妙義を、上州と信濃のある地点から見て見給え、とても、耶馬渓あたりの比ではないのだよ」
「時に、四面もうみな雪ですね」
「ああ、四面みな雪で懐ろだけが、こうしてあたたまっている」
二人は猪をパクつきながら、一盞《いっさん》を試みている。
万葉集を行李《こうり》の中から取り出して、ここに持ち来すべく出て行ったお雪は、廊下でバッタリと男妾《おとこめかけ》の浅吉に出逢いました。
浅吉は、気の抜けたような面《かお》をして、手に櫛箱《くしばこ》を提げながら、通りかかって来たものですから、
「浅吉さん、どちらへ」
「お雪ちゃん、お寒くなりましたね」
「ええ、寒くなりました、お風呂ですか」
「いいえ、これから、あなたのところへお伺いしようと思っているところです」
「そうですか……」
と言ってお雪は、浅吉の手に抱えている櫛箱に眼をつけますと、
「お内儀《かみ》さんにいいつけられたものですから、仕方なしに……」
「何ですか、浅吉さん」
「
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