から再三の御催促がありました、ナゼ任土貢を奉らないのだと……」
「お代官も困ったでしょう」
「ところが、陽城公が詔《みことのり》に答えていうのは……臣、六典ノ書ヲ按《あん》ズルニ、任土ハ有《う》ヲ貢シテ無《む》ヲ貢セズ、道州ノ水土生ズル所ノ者、タダ矮民《わいみん》有ッテ矮奴《わいど》無シ……とキッパリとお断わり申し上げてしまったのですね。つまり、私は昔の書物を調べてみましても、任土貢というものは、その土地に有るものを献上することで、無いものを献上すべきものではござりませぬ、わが道州には矮民というものは有るが、矮奴というものは無い、無いものを献上することはできませぬと、天朝に向って、キッパリとお断わりを申し上げてしまったのです」
弁信法師はこういって、感慨深く息をついて、
「ところが聖天子は、それを御感心あって、それより以来、矮奴を貢《みつぎ》とすることを悉《ことごと》くおやめになってしまいました。賢臣と明主との間はこうなければならない事です。道州の民のその後の喜びはどのくらいでしょう、老いたるも、若きも、みな喜んで、そこで一家|団欒《だんらん》の楽しみが永久に保たれるようになりましたものですから……道州ノ民、今ニイタルマデソノタマモノヲ受ク、使君《しくん》ヲ説カント欲シテ先ズ涙下《なんだくだ》ル、ナオ恐ル児孫ノ使君ヲ忘ルルヲ、男ヲ生メバ多ク陽ヲ以テ字《あざな》トナス……道州の民は今に至るまで、陽城公の徳を慕うて、そのことを語らんとするにまず涙が下るといった有様で、後の子孫がそれを忘れてはならないというところから、男の子が生れると、多くはそれに陽の字をつけました」
ひとりで説明し、ひとりで感心している弁信法師。それを聞いていた清澄の茂太郎は、退屈もしないが、さのみ感心した様子もなく、弁信の説明が一段落になった時に、例の般若の面を頭の上にのせて、つと立ち上って庭へ踊り出しました。
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いっちく
たっちく
ジンドコウ
有るものは有るように
無いものは無いように
陽城公が申し上げ
道州|民《たみ》が救われた
天朝様はお見通し
いっちく
たっちく
ジンドコウ
[#ここで字下げ終わり]
と歌いながら、三重塔のある宮の台に走《は》せ上《のぼ》りました。
その時、宮の台の原には、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が石に腰うちかけて、思案の体《てい》です。
この野郎、先刻は未練気もなく月見寺を出て行ったはずなのに、まだこんなところにひっかかっているところを見ると、何か思いきれないものが残っているのかも知れない。
「おれという野郎も、わからねえ野郎じゃねえか」
といって柄《がら》にもなく頬杖をついて、いささか悄気《しょげ》て見えるのは、近頃はどうも思うようにがんりき[#「がんりき」に傍点]の眼が出ないで、あっちへ行っては鼻を明《あ》かされ、こっちへ来てはヌカヨロ[#「ヌカヨロ」に傍点]をつかませられ、これも思いきれないで、血眼《ちまなこ》で東西南北を駈けめぐって、なにほどかモノにしようと焦《あせ》っているのが、兄貴の七兵衛の物笑いの種となるばかりでなく、御当人も、少しは気がさしたものらしい。
「さて今晩のところは……」
といって頬杖を外《はず》し、身を起しかけたのは、今晩これからの塒《ねぐら》の心配でしょう。
「うっかりドジを踏んで、粂《くめ》の親分にでも見つかろうものなら……事だ」
百蔵は真黒な犬目山《いぬめやま》の方を横目に睨《にら》んで見たのは、この男にとっては、この郡内は最も危険区域であり、ことに鳥沢の粂《くめ》という親分には、頭も尻尾も上らないで、いつぞやは、裸にされて、甲州名代の猿橋の上から逆《さか》さまにつるされたことがある。その辺を心配してみると、この危険区域には、うっかり碇《いかり》を卸せなくなるはずです。
で、結局、どう思案がついたか腰を浮かしながら、
「待てよ……あの寺で、おれの姿を見ると、慌《あわ》てて縁の下へ隠れたのは、ありゃ清澄の茂太郎だ」
とつぶやきました。なるほど、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの眼力《がんりき》で、子供の隠れんぼを見落すはずもあるまい。
その時分、幸か不幸か茂太郎は、
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いっちく
たっちく
ジンドコウ
[#ここで字下げ終わり]
そういいながら、ちょうど、この宮の台の原へ馳《は》せ上って、ほとんど、がんりき[#「がんりき」に傍点]の眼前|咫尺《しせき》のところまでやって来たものですから、
「おい――茂坊」
「おや?」
清澄の茂太郎が、ギョッとして立ち止まりました。
「茂太郎」
「あ、お前は……」
「お前こそ、どうしてこんなところに来てるんだい、両国橋にいれば、ああして人気の上に祭り上げられて、栄耀栄華《えいようえいが》が尽せるのに
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