、なんだってこんな山ん中へ逃げて来ているんだい。叔父さんと一緒に帰《けえ》らねえか、親方もお前を待ちきってるぜ、御贔屓筋《ごひいきすじ》もお前をさがしている。江戸へ行けば、お前は人気の神様で、金の生《な》る蔓《つる》を持っているのに、なんだってこんなところに隠れてるんだい。さあ、叔父さんと一緒に帰らねえか」
悪獣毒蛇を恐れない茂太郎が、この時、面《かお》の色を真青《まっさお》にして返事ができませんでした。
清澄の茂太郎は、アッとばかりに立ちすくんでしまいました。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、立ち上って左の手で茂太郎の右の手首をつかまえてしまいますと、
「叔父さん」
茂太郎は悲しい声を出しました。
「何だ」
「堪忍《かんにん》しておくれよ」
「堪忍するもしないもありゃしねえ、お前をよくしてやるんだぜ」
「だって」
「こんな山ん中に隠れているより、江戸へ出りゃあ――両国橋へ帰りさえすりゃあお前、いい着物を着て、うまいものを食べて、人にちやほやされて……」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、やさしく言って聞かせるように、
「楽ができて、うまいものが食べられて、人からは、やんやといわれて、それでお金が儲《もう》かるんだ」
といいました。
「叔父さん、あたいは、この方がいいんだよ、こっちにいたいんだから……」
「何をいってるんだ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、茂太郎の言い分をとりあわないのは、あながち、この子供のいやがるのを拉《らっ》し去ろうというのではなく、自分の推量で、つまり、いま言った通り、江戸へ帰りさえすれば、楽ができて、うまいものが喰べられて、いい着物が着られて、人から可愛がられるのに、こんな山の中へ拐《かどわか》されて来ているのを、不憫《ふびん》がる心もいくらかあるのです。だから、物やさしい声で、
「それから茂坊、お前には御贔屓《ごひいき》があることを忘れやしめえ。貴婦人――というのはなんだが、しかるべき後家さんや、御殿女中なんてのが、お前を可愛がりたがって、やいのやいのをきめていることを忘れやしめえ。叔父さんが話してやるから帰んな……よ、お寺へ話をしてやろう。お寺の誰に話をすりゃいいんだえ」
「叔父さん、御免よ、あたいは江戸へ帰りたくないんだから」
「わからねえことを言いっこなし」
「いいえ。じゃあね、叔父さん、弁信さんに相談して来るから、待っていて頂戴」
「弁信さんてなあ誰だい」
「あたいのお友達……今、縁側に腰をかけていたでしょう」
「あ、あの、小さい坊さんか」
「ええ、あの人に相談して来るから、待っていて下さい」
「それには及ばねえよ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、茂太郎の左の手を容易には放そうとしないで、
「おいらが行って話をつけて上げるから。もともとお前はこっちのものなんだ――こっちといっては少しなんだが……親方のところへ帰る分には、誰も文句のいい手がなかろうじゃねえか」
「でも……」
「いいッてことよ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は茂太郎の手を引張りました。
「ああ、弁信さあん」
茂太郎は声をあげて助けを求めるの叫びを立てようとするのを、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が早くも、合羽《かっぱ》の中へ抱え込んでしまって、
「おとなしくしな」
哀れむべし。清澄の茂太郎は、無頼漢《ならずもの》の羽掻《はがい》に締められて、進退の自由を失ってしまいました。せめて、口笛でも吹くだけの余裕があったならば、こういう時に、狼が来てくれたかも知れない。
しかし、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵とても、この子供を、そうむごく扱うつもりでしているのでないことは、おおよその挙動でも知れる。誰かに拐《かどわか》されて、こんな山の中へ連れ込まれて、動きが取れないでいるのを、再び世に出してやるのだというくらいな腹はあるらしい。だから、むしろ親切でしてやるつもりが見える。
そうして、とうとうがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と、清澄の茂太郎とは、どこかへ行ってしまいました。
一方、弁信法師が狂気のように騒ぎ出したのは、それから後のことであります。
弁信は、報福寺の提灯《ちょうちん》をともして、寺の門を駈け出して、
「茂ちゃあーん」
と幾度か叫び、幾度かころげましたけれども、返事とてはありません。
「茂ちゃあーん」
宮の台の、たった今まで百蔵がいた石のところまで来て、またころんで起き上った弁信は、提灯を拾い取って見ると、幸いにまだ火は消えておりませんでした。
「茂ちゃん、どこへ行ってしまった、悲しい」
といって弁信が泣きました。
もう呼んでも駄目だと思ったのでしょう、提灯をさげたまま、しょんぼりと、宮の台の原の真中に立ちつくしています。
「
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