は風のように去る男が、今度は動こうともしないで、その一室をわが物ときめこんで、割拠して敢《あえ》てくだらず、という意気込みです。
そうして、夜になると、蝋燭をともしてザラリザラリとキザな音をさせる。
これは相変らず、金銀、小粒、豆板、南鐐《なんりょう》、取交ぜた銭勘定をしているに違いないが、金に渇えているお絹にとっては、この音が気障《きざ》でたまらない。
そこで、この屋敷が、これだけでも、以前の染井の化物屋敷に劣らぬ怪物の巣となりつつあることがわかります。
二十八
今日は夕焼のことに赤い日。葉鶏頭《はげいとう》の多い月見寺の庭を、ゆきつ、もどりつしている清澄の茂太郎は、片手に般若《はんにゃ》の面《めん》を抱えながら、器量いっぱいの声で、
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やれ行け
それ行け
早駕籠《はやかご》で……
早駕籠で……
赤いもんどの
暁《あけ》の鐘《かね》
そりゃ、暁の鐘
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と歌いながら、夕焼に赤い西の空に向って、歩調を練習する兵隊さんの足どりで、行きつ、戻りつしていましたが、またも繰返して、
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やれ行け
それ行け
早駕籠で……
早駕籠で……
赤いもんどの
暁の鐘
そりゃ、暁の鐘
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例の弁信法師が積み上げた石ころのところまで来ると、左に抱えていた般若《はんにゃ》の面を、右に抱え直して、廻れ右をし、
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お前とわたしと
駈落《かけおち》しよ
どこからどこまで
駈落しよ
鎌倉街道、駈落しよ
鎌倉街道、飛ぶ鳥は
鼻が十六、眼が一つ
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いい心持で、声を張り上げている時、弁信が縁へ現われて、
「茂ちゃん」
「あい」
「あんまり出鱈目《でたらめ》を歌ってはいけません、鼻が十六、眼が一つなんて鳥はありませんよ」
「そうか知ら」
「きまっているじゃないか、考えてごらん、十六の鼻を面《かお》のどこへつけます」
「だって、あたいは考えて歌っているんじゃないのよ」
と答えた茂太郎は、弁信の注意には深い頓着を払わずに、再び歩調を取って歩きつづけ、
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あの姉さん
よい姉さん
堺町のまん中で
うんげん絞りの振袖を
口にくわえて
通る時……
淀《よど》の若衆《わかしゅ》が呼び留めて
お前の帯が解けている
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「茂ちゃん」
弁信が再び呼びかけたものですから、歌いかけた茂太郎が、
「あい」
「お前、うたうなら子供らしい歌をおうたいよ」
またも干渉を試みたものですから、茂太郎が首を振って、
「なぜ」
「なぜだってお前……鄭声《ていせい》の雅楽《ががく》を乱るを悪《にく》む、と孔子様が仰せになりました」
「え……」
「歌うんなら、子供らしい歌をおうたいなさい、今のようなのはいけません」
「弁信さん、お前、むずかしいことばかりいうんだね、鼻が十六あってはいけないの、孔子様が歌をうたってはいけないのなんて……あたいが一人でうたって、一人で喜んでるんだから、かまわないじゃないか」
「そういうものではありません……では、わたしがひとつ、白楽天《はくらくてん》の歌をお前に教えて上げましょう」
「白楽天ッてなに――」
「支那の昔の歌よみさ」
「教えておくれ」
「道州の民《たみ》ッていうのを歌いましょう」
「道州の民ッていうのはなに」
「道州ノ民、侏儒《しゅじゅ》多シ」
「道州ノ民、侏儒多シ」
「長者モ三尺余ニ過ギズ」
「長者モ三尺余ニ過ギズ」
「市《う》ラレテ矮奴《わいど》トナッテ年々《としどし》ニ進奉セラル」
「弁信さん、これが歌なの、論語じゃないの」
茂太郎が、少しく不平の色を現わしました。
「だまって覚えておいでなさい、あとでわけを話して上げますから」
そこで二人は、黄昏《たそがれ》の縁に腰うちかけて、白楽天の譲り渡しを試みていますと、門をスタスタと入って来る人がありましたから、めざとくそれを見つけた茂太郎が、
「あ、いやな奴……」
というが早いか、身をおどらして、縁の下へ隠れてしまいました。
「誰が来たの」
弁信が徒《いたず》らに見えない目を動かしているところへ入って来た旅の人が、
「御免下さいまし」
「どなたですか」
「はい、ええ、通りがかりの者でございますが……」
見ればキリリ[#「キリリ」に傍点]として甲掛《こうがけ》脚絆《きゃはん》の旅の人。口の利《き》き方も道中慣れがしていると見えて、ハキハキしたものです。
「はい」
「つかぬことを承《うけたまわ》るようでございますが……手前は大工が商売でございまして」
「あ、大工さんですか」
「はい、渡り大工といったようなものでございますが、承れば」
承ればを二度ほど重ねたことほど切口上《きりこうじょう》で、弁信の傍へソ
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