立川流――の流れは、もう少し源が遠く、流れが深いはず。
 しかし、たぶん今ごろは、千隆寺の境内《けいだい》の八葉堂の地下の秘密室では、子を求むる婦人のために、問題の祈祷がはじまったものと覚しい。
 とにもかくにも、ここで、禁制の立川流を秘密に行って、男女を集めているという風聞は、もう、その筋の検挙の手を下すまでに拡がっているというのは、本当らしい。
 お絹という女の好奇心をそそって、今宵その秘密の修法《しゅほう》の席に連《つら》なることを許したはずの、この千隆寺の若い住職というのが、なかなかの曲者《くせもの》だ。
 さあ、いよいよその秘密の伏魔殿が発《あば》かれた日になって見ると、どんな怪我人が、どこから現われて来るか、この若い住職の素性《すじょう》もわかってくれば、その秘法に心酔して、夜な夜なつどう婦人連の顔が明るいところへ出された時、世間をあっ! といわせるかも知れない。
 七兵衛は、そんな事を考えている時、下では、呉竹の間や、稲垣の蔭や、藤棚の下や、不動堂の裏あたりから、黒い人影が幾つも、のこのこと出て来ては、松の幹の下の、以前に話し込んでいた二人の前に集まると、二人の者がいちいちそれに囁《ささや》いて差図をするらしい。差図を受けると集まって来たのが心得て、また闇の中に没入する。その人数|凡《およ》そ十余人を数えることができました。ははあ、いよいよあの人数が千隆寺へ手を入れるのだな――そうなると自分はどういう態度を取ったものか。まあ、もう少し高見の見物。いよいよ事がはじまってから、また取るべき手段方法もあろう、まず危うきに近寄らぬが勝ち。幸い、よき物見の松、と七兵衛は再びこの松に落ちつく心持。
 その時、さいぜんから控えていた二人の者が、やおら立ち上って、しめし合わせながら、闇に消えてしまいました。
 そこで七兵衛も思案して、松の樹を下りましたが、さてどこへどう飛び込んだか、闇の礫《つぶて》のようなもので影がわかりません。
 しかし、松の上で見定めておいた見当によって、千隆寺の境内へまぎれ込んだのは疑いもなく、八葉堂の燈籠《とうろう》の下で、ちらりと見せたのは、たしかに七兵衛の姿でした。
 いや、その前方《まえかた》、燈籠の蔭には、七兵衛でない他の者の姿も、ちらりと影を見せたことがあります。多分、例の隠密《おんみつ》でしょう。
 それから一時《いっとき》ほどして、千隆寺の境内八葉堂のあたりを中心として、沸くが如き喧騒が、根岸の里の平和を、すっかり破ってしまいました。
 火事か、火事ではない、強盗か、いいえ、盗賊でもないそうです。千隆寺へお手が入りました。
 ナニ、どうして? お寺で賭博《ばくち》があったのだそうです。そうですか、それはどうも。いいえ、そうではありません、人殺しの凶状持《きょうじょうも》ちが、あのお寺へ逃げ込んだのだそうです。それはこわい――やや遠方まで、人の胆《きも》を冷させたが、この際、自分の家の戸締りをかたくすればとて、出て見ようとする者はありません。
 八葉堂を中にした千隆寺の庭では、数多《あまた》の坊主どもが、法衣を剥《は》がれて、例の捕吏《とりて》の手に縛り上げられて、ころがされている。婦人たちが泣き叫んで逃げ迷うのを、これは、さほど手荒なことをしないが、一人も逃さず、本堂へ追い込んで見張りをつけて置く。
 なかには、闇にまぎれて裏手から、或いは垣根を越えて、やっと逃げ出したところを、待ち構えていた捕方につかまえられて、有無《うむ》をいわさず、境内へ投げ返された僧侶も、女もある。実際、蟻のはい出る隙間《すきま》もないほどに、手筈はととのっていたものらしい。
 さて、本尊の住職はどうした。その夜、はじめて入室を許されたお絹という女はどうした。これは、縛《いまし》めのうちに見えない。
 捕吏《とりて》たちは、血眼《ちまなこ》になって、住職をとたずね廻るけれども、ついにその姿を見出すことができないで、堂の壇上から裏の藪を越えて、稲荷《いなり》の祠《ほこら》の前まで、地下に抜け穴が出来ていたのを発見した時は、もう遅かったようです。
 これより先、七兵衛は早くも本堂の天井裏に身をひそませて、じっと下の様子を見おろしておりました。
 本堂の中では、お手前物の蝋燭《ろうそく》を盛んにともしつらねさせて、さながら白昼のような中に、引据えられた婦人たちを前に置いて、仮りに訊問の席を開いているのが、天井の七兵衛には、手に取るように見えます。
 しかし、恥と怖れとで、その婦人たちは、いずれも面《かお》を上げている者がありませんから、どのような身分の、どのような縹緻《きりょう》の婦人だか、それはわかりません。
 有合わせの床几《しょうぎ》に腰をかけて、その婦人たちを訊問している二人の侍。その声で覚えがあるが、これはさい
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