て、それからひとつ、あの千隆寺へ行ってみようかとこう思いまして、穏かに上ったつもりなのですが……」
「千隆寺?」
 その時、神尾主膳は忘れていた記憶が蘇《よみがえ》って来たものと見え、
「うむ、千隆寺」
と叫んで歯噛みをしました。
「その千隆寺へ、実は七兵衛が、お絹様のおともをして行ってみたかったんです、ところが、どうも、そうはいきそうもございませんものですから、あなた様と御相談をした上で、ひとつ搦手《からめて》から乗込んでみようと、こう思いついて上ったのに、いきなり槍玉の御馳走は驚きました」
 木の上で七兵衛は、なるべく低い声で、ものやわらかに言いますと、主膳の逆上がいくらか引下ったと見えて、
「うむ、では、貴様は盗賊ではなかったのか」
「ええ、まあ、そういうわけでございます」
「では、下りて来い」
「いや、お待ち下さい、もう少し上ってみましょう、千隆寺の庭がここで眼の下に見えますから……」
 なるほど、この御行《おぎょう》の松の上へのぼると、呉竹《くれたけ》の根岸の里の寺々がよく見えます。
 円光寺も見える。正燈寺も見える。金杉の安楽寺までが、それぞれ相当に高い甍《いらか》を見せているが、めざす千隆寺の庭だけが、特に明るい。
 七兵衛が、夜分、遠めの利《き》く眼とはいえ、こうして、上から眺めたんでは、どこにどういう秘密が行われているか、わかるべきはずはない。多分、あの境内《けいだい》に忍び入るには、どの口から向ったのが有利か、それを研究しているのでしょう。
 一方、神尾主膳は、槍を片手に、一時は酔眼をみはって、松の上をながめていたが、やがて、酒乱の峠を越したのか、疲れてしまったのか、しきりに眠くなったと見えて、くずおれるように、松の幹によりかかってみたが、ついに支えきれず、根元へ倒れようとして起き直り、きっと足を踏みしめて、何か呟《つぶや》きながら、歩き出しました。
 どこへ行くのだろう。多分、屋敷へ引返すのだろうと、松の上から七兵衛は、足もとあぶなく、槍を力に、ふらふらと歩いて行く主膳の姿を、こころもとなく見返っていましたが、それも、まもなく、呉竹《くれたけ》の蔭なる小路《こうじ》に隠れて、見えずなりました。
 あとで、ゆっくりと、高見の見物で、千隆寺の境内を隈なく見おろしていた七兵衛。いいかげんの時刻に、ひとり合点《がてん》をして、その松を下りようとすると、例の呉竹の小路の間から、足音が聞えました。
 また思い出して、神尾主膳が戻って来たな、見つかっては面倒だと、いったん下りて来た七兵衛が、そのまま、松の茂みの間に身をひそめています。
 歩いて来たのは二人連れ。神尾主膳が戻って来たのでないことは確かだが、因果なことに、その二人が、御行《おぎょう》の松の根元へ来て、どっかと腰をおろしてしまったことです。
「時に時刻はどうだ」
「まだ少し早かろう」
 そのまだ少し早かろうという時間を、ここでつぶそうとするものらしい。
 七兵衛が苦《にが》い面《かお》をしました。どのみち、長い時間ではあるまいが、少なくとも、この連中が立退かない限り、この松の上からは下りられない。下なる二人は、かなり落着いて、しかし人を憚《はばか》っての話し声でありましたが、頭の上の七兵衛には、それが手に取るように聞き取れる。
「いったい、その立川流というのは、いつの頃、どこで起り出したものだろう」
「それは、今より八百年ほど昔、武蔵の国、立川というところで起ったのだが、その流行の勢いが烈しきにより、まもなく禁制となったにもかかわらず、ひそかに、その法を行うものが絶えなかったとのこと」
「ははあ、武蔵の立川が発祥地で、それから立川流という名が出たのか」
「それを、今時分、千隆寺の山師坊主がかつぎ出して、大分うまいことをしていたのが、今宵はその納め時」
というのが、七兵衛の耳に入りました。そうでなくても、その以前から七兵衛が気取《けど》ったのは、この二人の者は隠密《おんみつ》だ。与力か、同心か、その下の役か、よくわからないが、とにかく、物をいましめるために忍んで来た役向の者に相違ないと、早くも感づいてはいましたが、さてこそ、めざすところは、自分と同じことに千隆寺。そうして、どうやら、この寺へ、以前から目星をつけておいて、今夜は踏込んで、手入れをする手筈がきまっているらしい。
 それはわかったが、わからないのは立川流ということ。
 武蔵の国、立川というところは、七兵衛が江戸への往還の道だからよく知ってはいるが、そこから立川流というものが出たことは知らない。
 千隆寺の坊さんが、立川流という剣術をつかうわけでもあるまい。八百年前に起って、流行の猛烈にして弊害の甚だしきにより、禁制になったという流儀を、ここの坊主が行っているという。

         二十七

 
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