この秘法は、授けるまでに人を吟味し、信心を試験することがかなり厳しいと聞いていたのに――
丑の日の深更を選んで、子無き女のために、子を授くるの秘法が行われる、滅多な者には許さないが、信心浅からずと見極めのついた者にのみ、その修法《しゅほう》が許される。
という住職の申渡しが、お絹をして、してやったりと心の中で舌を吐いて、うわべに拝むばかりに有難がらせ、あまたたび、住職に拝礼して、いそいそとして千隆寺から帰って来ました。
一切を神尾主膳に報告して三日目、丑の日という日の夕方、お絹が念入りにお化粧をはじめると、神尾がその傍でニタニタと笑い、
「これからが土壇場《どたんば》だ」
と言いました。
「戦場へ乗込むようなものですわ」
お絹は度胸を据えながらも、ワクワクしている。
「一人でやるのは心配だ」
と神尾がいいますと、
「お連れがあっては許されませぬ」
とお絹がいう。
どうもこの女の心持では、秘密の修法を受けに行くおそれよりは、好奇心に駆《か》られている方が多いらしい。だから、取りようによっては、「いいえ、御心配には及びませぬ、わたしは願っても、そういうところへ一人で行ってみたいのですよ」といっているようです。
今にはじまったことではないが、それが神尾には不満です。神尾でなくったって誰だって、こういう危険を好む女に安心をしてはいられない。今は計るところがあるのだからいいようなものの、もしこれが本当の女房であったらどうだろう。深夜の秘密の修法には、秘密の道場があるに相違ない。その秘密室に隠されたる秘密の罪悪。子をほしがるほどの女に、娘というのはないはずだから、みんな人の妻妾――その秘密が洩れないのは、受ける者が秘密を守るからだろう。
神尾主膳はこの時、千隆寺の坊主が憎いと思いました。まして美僧でもあろうものなら、殺してやりたいとさえ思いました。
千隆寺の坊主ども覚えていろ! 思わず血走って一方を睨《にら》んだ目は、酒乱のきざした時の眼と同じことです。
それと知るや知らずや、お絹は悠々閑々《ゆうゆうかんかん》とお化粧をこらしながら、
「色は浅黒いが、ちょっと乙な坊さんですから、ことによると女の方が迷うかも知れません。しかし御安心なさいまし、こちらは役者がちがいますからね」
とお愛嬌のつもりでいったのが、はげしく神尾の神経に触れたようです。
飲まない時は酒乱が起らない。酒乱のない限り、神尾は扱い易《やす》い男になっているが、この時はそうでない。飲まないで、そうして、酒乱の時と同じような眼のかがやきを現わして、ブルブルとふるえ、
「お絹!」
「え……」
「お前、今晩、千隆寺へ行くのを止《よ》せ」
「え、何ですか、千隆寺へ行くのは止せとおっしゃるのですか。止せとおっしゃるなら止しもしましょうが、わたしが好んで行きたがるわけじゃないはずです、どなたか、おたのみになったから、柄になくわたしがお芝居を打とうというんじゃありませんか」
お絹も少しばかり気色ばみました。そのくせ、お化粧の手は少しも休めない。
「いや、止してもらいたい、止めにしてもらいたい」
神尾はいよいよあせり気味で口早にいいますと、お絹は落着いたもので、
「駄々っ児のようなことをおっしゃったって仕方がありません、止すなら止すように初めから……」
この時、神尾主膳は物につかれたように立ち上って、
「止せ!」
お絹の向っていた鏡台に手をかけると、無惨《むざん》にそれをひっくり返してしまったから、
「あらあら」
これにはお絹も怫《むっ》としました。
けれどもこの時のは、酒に性根《しょうね》を奪われておりませんでしたから、いわば一時の癇癪《かんしゃく》です。神尾主膳はむらむらとした気分を鏡台に投げつけて、それをひっくり返しただけで、すっと自分の居間へ引上げてしまいました。
「なんて、乱暴でしょう」
お絹も、さすがに、むらむらとしましたが、酒が手伝っていない以上は、結局、これだけで納まるものだと見くびりながら、倒れた鏡台を起し、
「いやになっちまう」
と言いながら、鏡台を引起して、ふたたび鏡台に向ったが、「じゃ、止《よ》そう、お寺へなんか行くのは止しちまおう、こちらから頼んだわけじゃあるまいし」とは言いません。鏡に向って以前よりは念入りにお化粧をやり直したのは、かえって、「行きますとも……行きますとも。ここまで乗りかけた舟に乗らないでいられるものですか。落ッこちる心配なんかありませんから御安心下さいよ」といっているようです。そうでしょう、落ちる心配はあるまい。落ちたところで、この女は溺《おぼ》れる気づかいのない女です。
そうして丹念にお化粧を済ましたお絹は、根岸の里の夕闇を、さんざめかして程遠からぬ千隆寺へ乗込んだのは間もない時。
神尾主膳が酒を飲み出した
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