わかる。頼みようによっては一肌も二肌も脱ぐ女だが……どうも現在では考え物だ。あの女を呼び寄せれば、こちらの女が黙ってはいない。お角とお絹とは前生《ぜんしょう》が犬と猿であったかも知れない。一から十まで合わないで、逢えば噛み合いたがっている。お角へ沙汰をすれば、あの女は一議に及ばずここへやって来る。お絹と面《かお》を合わせるようなことにでもなれば、この根岸の天地が晦冥《かいめい》の巷《ちまた》になる。それはずいぶん恐ろしい……どうかして、うまくお角を誘《おび》き寄せる工夫はないか。ともかく、手紙をひとつ書いてみようではないか。神尾主膳はその心持で手紙を書きかけたところへ、お絹が帰って来たものですから、その手紙をもみくちゃにしてしまいました。
「ただいま帰りました」
「お帰り」
と言ったが、神尾はやはり苦々《にがにが》しい心持です。
「ああ、今日はずいぶん歩きました」
「どこへ……」
「どこという当てはございませんけれど……」
 神尾はひとりで留守居をさせられている時は気が焦々《いらいら》し、帰って来た瞬間は、人の気も知らないでといういまいましい気分になりますけれど、やがてあまえるような口を利《き》き出されると、つい、とろりとして可愛がってやりたい気になります。そこで、結局、あれもこれも、有耶無耶《うやむや》です。
 やがて、二人|睦《むつ》まじい世間話、
「今の坊さんたちの商売上手には、驚いてしまいました」
「どうして」
「今日、上野の広小路を通りかかりましたところ、坊さんのお説教とばかり思って見ましたら、不動様の御本尊の巻物を売り出しておりましたよ」
「なるほど」
「それもあなた、不動様の功徳《くどく》を述べる口の下から、一巻についていくら、十巻以上は割引……まるで糶売《せりうり》のような景気。でもなかなか売れるようでしたから、ずいぶんお金儲けにもなりましょう。ほんとうに今時の坊さんは商売上手です」
「ははあ」
 この時神尾主膳の耳へは、金儲けという言葉が強く響いて、その金儲けから逆に、お絹の言葉を二度三度思い返しているうちに、ハタと自分の膝をたたきました。
 神尾主膳がハタと膝をたたいたのは、お絹の世間話が暗示となって、こういうことを考えついたのです。
 坊主を利用してやろう――という、ただそれだけのボーッとした謀叛《むほん》の輪廓が浮き上って来ました。というのは、僧は俗より出で、俗よりも俗なり、ということをかねて知っていたからです。出家は人間の最上なるもの、王位を捨ててもそれを求むるものさえあるが、坊主の腐ったのときた日には、俗人の腐ったのより更に悪い、図々しくって、慾が深くって、理窟が達者で、弁口がうまくて、女が好きで……それを神尾主膳はよく心得ていたから、この際、堕落坊主をひとつ利用して、何か山を張ってみようと考えついたのです。
 そこで輪廓のうちへ、お絹の顔が、またボーッと浮んで来ました。
 女だわい――谷中《やなか》の延命院の坊主は、寺の内へ密会所を作って、身分ある婦人を多く引入れた。これは終《しま》いがまずかったが、もっと高尚な、巧妙な方法で大奥を動かして、権勢を握った坊主がいくらもある。
 坊主は、比較的に身分ある婦女子にちかより易《やす》い地位にもいるし、お寺参りをするのは、芝居茶屋へ通うよりは人目がよい。
 感応寺の「おみを」は十一代将軍の寵愛《ちょうあい》を蒙《こうむ》って多くの子を生んだ。そのおかげで感応寺は七堂伽藍《しちどうがらん》を建て、大勢の奥女中を犯していた。花園殿もその坊主にだまされて、身代りに女中が自害したこともある。
 神尾主膳は、そういうことの幾つもの例を手に取るように知っていたから、お絹の今の世間話が、その記憶を残らず蘇《よみがえ》らせて来たもので、それがこの際の謀叛気をそそのかしたものです。
 腹があって、融通がきいて、商売気のある坊主を見つけたいものだ。
 それは、さして難事ではあるまい。清僧を求めるにこそ骨も折れようが、左様な坊主は今時ザラにある――と神尾は、ひとりうなずいてみました。
 どういうつもりか、編笠をかぶって、忍びの体《てい》で、久しぶりで屋敷の中から市中へ向けて神尾が出かけたのは、その翌日のことです。
 昨日《きのう》話に聞いた上野広小路。そこへ立って人の肩から、そっとのぞくと、お絹の話した通り、旗幟《はたのぼり》を立てた坊さんが、物々しく、御本体不動尊の絵像を売っている。その口上も昨日聞いた通り……ただ、昨日の通りでないのが、一通り不動尊の絵像を売り出してから後、改めて、右の頭巾《ずきん》かぶりの坊さんが、その不動尊の絵像を買求めた者に、景品の意味で授ける安産のお守りの効能を、細かく説明していることです。
 右の坊さんは、怪しげな妊娠の原理から説き起して、この安産
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