ことに金の有難味を知っている神尾主膳――金を儲《もう》けることの有難味ではない。使う方の有難味を知っている神尾主膳にとっては、金の光と一緒でなければ、どこへも行ってみようという気にならない。
眼と鼻の先に吉原があろうとも、好きな書画|骨董《こっとう》の売立ての引札を見ようとも、かわり狂言の番付がくばられようとも、しょげるばかりで浮き立たない。
お絹にあっては、それがいっそう輪をかけた渇望で、この女の持っているすべての虚栄心と不満足は、みな金というところへ落ちて行く。その金が廻らない。廻るべきはずもない。果してこんなところへ思うように廻って来れば、この世に苦労はない。そこで、どうしても廻らないものを、無理に廻そうとする。
あの当座こそ、二人は外へも出ないで、浮《うわ》ずって暮らしていたが、このごろ、お絹は、小女《こおんな》をつれてちょいちょいと出歩く。どうかすると、朝出て夜おそく帰って来ることさえある。
それは廻らないものを、無理に廻そうとする算段だと知っているから、神尾もとがめ立てをするわけにはゆかない。けれども、その出て行ったあとでは、神尾もいい心持はしない。ことに夜おそく帰られたりする時には、むらむらと気が変になることもあるが、今の身ではそれもかれこれということはできない。そういう時には、お絹が必ず多少のみやげを持って来るのだから。そのみやげというのは、つまり、差当って二人の生活になくてはならぬ「金」をどこからか借り出して来るからです。
こうして神尾は、今のところ、お絹の働きによって養われている有様だが、これは神尾にとって不満であるように、お絹にとっても食い足りない。もっと派手に儲けて、もっと派手に遣《つか》いたい。その時にお絹は、お角のことを思い出して、ひとり腹立たしくなる。何か一やま当てて、あの女の鼻を明かすような働きがしてみたいが、どうも足掻《あが》きがつかない。
こんな謀叛気《むほんぎ》は、神尾も相当に持っていないではないから、二人は顔を見合わせると、あれかこれかと語り合ってみるが、落着くところは資本《もとで》。まとまった金が土台になければ動きが取れないということになる。
お絹が駒井甚三郎に当りをつけたのは、最初からのことでしたが、手を廻してみると、駒井は房州の方へ行ってしまったとのこと。房州まで逐《お》いかけて行く気にもなれない。
そこで、方針をかえて、江戸府内の心あたりを訪ねている。
今日も、小女を連れたお絹は、湯島の方から上野広小路へ出て、根岸の宅へ帰ろうとしました。広小路の賑やかなところを通って行くうちに、五条天神へはいる角のところで、一人の坊さんが立って頻《しき》りに説教をしている様子を見かけました。聞くともなしに聞くと、
「成田山御本尊のお姿、滅多にはおがめない不動尊御本体のおうつしを、このたび御本山のおゆるしを得て皆様に売り出して上げる、一巻が百と二十文、十巻以上お買求めの方には、一割引として差上げる、滅多にはおがめない成田山御本尊の御影像、一枚が百と二十文、十枚以上お買求めの方には一割引……」
お絹がそれを聞いて、これはお説教ではないと思いました。
これはお説教ではない、成田山御本尊の絵姿を売っているのだと思いましたが、その坊さんたちの仰々しい錦襴《きんらん》の装いや、不動明王御本尊と記した旗幟《はたのぼり》が、いかにも景気がよいものですから、お絹も足をとどめて、人の肩からちょっとのぞいて見ますと、中央に僧頭巾をかぶった坊さんが、物々しくいいつづけました、
「勿体《もったい》なくも、成田山御本尊不動明王のお姿、滅多には拝めない品を、このたび、衆生済度《しゅじょうさいど》のために、あまねく世間に売り出して差上げる、一枚が百と二十文、十枚以上お買求めの方には一割引――なお、この際お申込みの方には特に景品と致しまして――」
前に、やはり錦襴の帳台を置いて、その上におびただしい絵像の巻物を積み重ねながら、要するに衆生済度のために、不動尊の絵姿を、一般に公開して売下げるという宣伝であります。
大江戸は広いものですから、これを聞いて有難涙に暮れながら、お姿をいただいて帰るものもあり、なかにはばかばかしがって、山師坊主の堕落ぶりの徹底さかげんを、あざ笑って過ぐるものもあります。お絹も、その光景を見て、なんだか異様に感じました。
信仰心などは微塵《みじん》もありそうもないこの女。それでも、不動尊の公開売出しには、少しばかり驚かされたものと見える。
その場は、それだけで、まもなく根岸の里へ帰って来ました。
神尾主膳はその時、一室に屈託して、今日もしきりに金のことを考えています。ぜひなく両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方お角のところへ無心してやろうかとも思いました。あの女ならば話が
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