して上げてみてごらんなさい」
 三十名の子供が、残らず両手を差し上げると、
「あ、先生、おたあ[#「おたあ」に傍点]はつばき[#「つばき」に傍点]で、手にくっつけた墨をふいています」
「うそだい」
 ともかくもこれで習字の時間が終って一礼すると、子供らは、切りほどかれたように、与八と、お松の周囲に寄ってたかってかじりつく。
 与八も、お松も、それを叱ろうとはしません。
 沢井道場の今日このごろの有様は、こんなあんばいです。

 今日はお松が、ムク犬をつれて、万年橋を渡ります。
 これはかねて、心がけていた、対岸和田の村に、宇津木文之丞のお墓参りをしようと思っていたのを果すつもりと見える。実は、このお墓参りには、与八も、郁太郎も、乳母《うば》も、登もうちつれて、一緒に出かけようとも思ったのですが、それはどうも憚《はばか》るところが多いと思い返して、お松はムク犬だけをつれて出かけたのです。
 天気がよいのに、秋がすでに闌《たけな》わという時ですから、多摩川をさしはさんだ両岸の山々谷々が錦のようになっています。
 大菩薩へ通ずるこの街道。お松には思い出の多いところ。
 万年橋の上ではたちどまって、川の流れを見下ろしました。
 橋の袂《たもと》で逢った夫婦連れの巡礼。お松はその姿をなつかしくながめて、
「どちらからおいでになりました」
「上方《かみがた》から大菩薩越えをして参りました」
「大菩薩峠の上は、もう雪でしょうね」
「いいえ、まだ雪はございませんでしたが、ずいぶん寒うございました」
「紅葉《もみじ》はどうでした」
「麓《ふもと》がこんなにあかいくらいですから、峠の上はもう冬でございます」
「そうですか、お大切《だいじ》に」
 それだけの問答で別れる。
 海抜六千尺の峠の頂《いただき》に、吹雪よりも怖いものはいなかったか、それまではきかず。
 向うの村へ渡って、改めて沢井を見渡すと、山巒《さんらん》の中腹に塀をめぐらした机の家は、さながら城廓のように見える。
 お松は秋の情景をほしいままにして、山と畑との勾配《こうばい》ゆるやかな道を歩みました。
 と見れば、道ばたの芝の上に置かれた剣術の道具一組。袋に入れた竹刀《しない》につらぬかれたまま置捨てられて、人は見えない。
 あちらの畑の中の柿の木の上で声がする。
「新ちゃん、沢井の道場がこのごろ開けたってなあ」
「そうかい」
「それでね、女の先生が来たんだとさ。女の先生だから薙刀《なぎなた》でも教えるんだろう」
「そうか知ら、薙刀はこわいや」
 お松が通りかかるとも知らず、沢井の道場のこのごろの噂《うわさ》。
「薙刀は一段違いだからな」
「そうさ、薙刀は一段違いだから、油断してかかるとやられるとさ」
「明日あたり見に行こうか」
「見に行こう。だが、先生にしかられると悪いからな」
「見に行くだけならよかろう。それに、薙刀の武甲流というのは、もとは甲源一刀流から出ているのだと先生がいったよ」
「そうか知ら」
「女でも先生になるくらいだから、強いだろうな」
「そりゃ強いさ」
 お松は立ちどまって、柿の木の上の子供の話を聞きながら、おかしさに堪えられませんでした。沢井の道場を開いて、剣を教えずして、文字を学ばしめているのに、それが誤り伝えられて、自分のことが薙刀の師範として子供らの噂にのぼっている。それにしてもこのあたりの子供、柿の木によじながらも武芸の話。路傍に置捨てられた剣術の道具も、この子供のそれに違いない。
 話によれば、近いところの先生の許《もと》へ、剣術の稽古に行くその道草らしい。
 ほどなく、枝つきの柿の実をおびただしく手折《たお》って畑道を駈けて来る二人の少年、年はいずれも十五六。
「あ――」
といってお松と顔を見合わせ、恥かしそうに以前置捨てた剣術の道具の傍へよって、その柿の枝を結《ゆわ》えつけて肩にかける。二人の少年の勇ましい後ろ姿を見るにつけ、思い起すは宇津木兵馬のこと。
 武術は人に敢為《かんい》の気象を教えるが、抗争の念を助長させたくないものだ、との優しい心づくし。

         二十五

 根岸に引移った神尾主膳と、お絹とは、このごろ痛切に金がほしいと思っています。
 誰でも大抵の人は金がほしいと思っているが、この二人にとって、それがいっそう切実なのです。
 神尾主膳はある時、つくづくと思いました、
「金というやつは女とおなじことで、出来る時は逃げても追っかけてくるが、出来ないとなると、追いかけても逃げてしまう」
 お絹もまた口に出して言う、
「どうかして、お金がはいる工夫はないものかしら」
 実際、金というものがない以上は、都会生活の興味の大部分は失われる。こうして不景気に隠れん坊をしているくらいなら、深山《みやま》の中も、根岸の里も、変ったことはない。
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