駄目だよ」
おでこが差出口《さしでぐち》をする。
「何で駄目だい」
「与八さんは、力があったって、お人好しだから駄目だよ」
「お人好し?」
「ああ」
どちらもお人好しの意味がよくわからないで、
「お人好しなんていうのはおよしよ、与八さんは、ありゃお地蔵様の生れかわりだって、うちのおっ母《かあ》がいってたよ」
「うちの父《ちゃん》は、与八さんという人は、ありゃお人好しだっていってたよ。だから、力があったって、喧嘩をすることなんかできやしねえ」
「力は喧嘩のためにばっかり使うもんじゃあるめえ」
「だって喧嘩の時に使わなけりゃ、力があったって詰らねえや」
「そうでもあるめえ」
その時、子供の一人が急に下の方をながめて、
「ああ、それムクが来たよ」
「ムクが来た」
子供たちのすべてが傘をあみだにして下段の方を見ると、ムク犬が首に小笊《こざる》を下げて、悠々《ゆうゆう》とのぼって来る。
今ではこの犬も、同じところの屋敷に、同じように客となっている。
そうして、小笊を首に下げては、里へ買物に行くのを仕事の一つとしている。最初は怖れていた村の子供も、今はこの犬を畏愛《いあい》するようになっている。
子供たちはムクを中にとりまいて上りはじめる。お化けのことも、お人好しのことも、もう問題にはなっていない。
「犬ハヨク夜ヲ守ル、人ニシテ犬ニ如《し》カザルベケンヤ」
背の高いのが、大きな声で叫び出す。
「太郎ドンノ犬ハ白キ犬ナリ、次郎ドンノ犬ハ黒キ犬ナリ」
負けない気で、あとをつづけた鼻垂小僧《はなたれこぞう》。
「油屋ノ縁デスベッテコロンデ……」
と歌い出した涎《よだれ》くり。
こうして犬を擁《よう》した子供らは、石段をのぼりつめて冠木門《かぶきもん》をくぐると、
「先生」
「与八さあ――ん」
「こんにちは」
「雨が降ります」
道場の庭は、にわかに騒々しく、賑わしくなりました。
その時分、与八はもう地蔵の彫刻をやめて、道場の内部には机が並んで、三十人ばかりの子供がズラリと並ぶ。
「先生、こんにちは」
「お師匠様、こんにちは」
先生といわれ、お師匠様と呼ばれているのはお松です。
「みなさん、雨の降るのに、よく休まないで来ましたね」
お松はここで三十人の子供を相手に、単級教授をはじめる、介添役《かいぞえやく》は与八。
ソの字と、リの字の区別のつかないもの、七の字を左へ曲げたがるもの、カの字の肩の丸いのを直したり、やや進んだところで、村名尽《むらなづく》しの読み方、商売往来、古状揃《こじょうぞろえ》の読違えを直してやったり、いま与えてやったお手本へ、もう墨をこぼしたのを軽く叱ったりしていると、そのうしろでは何か物争いをはじめて、取組み合いがはじまるのを与八が取押える。
「お師匠様」
だしぬけに呼ばれて、お松は振返り、
「何ですか」
「与八さんはお人好しだっていいますが、本当ですか」
「そんなことをいうものではありません」
お松がたしなめると、当の与八は笑っている。
「お師匠様」
「何ですか、もうすこし小さい声をなさい」
「金太の野郎が、おいらの墨をなめました」
「なめやしないやい、香いをかいでみたんだい、こんな物をなめるかい」
「いけません、人の墨や筆を、だまっていじるものじゃありません」
「あ、先生、宇八が、あとから、おれの頭の毛をひっぱりました」
「いけません」
「お師匠様」
「何ですか」
「三ちゃんが、ここの道場へはお化けが出るって言いました」
「旅のお侍に聞いたんです」
「そんなことをいうもんじゃありませんよ」
「お師匠様、川っていう字は真中から先に書くんですね、端から書いちゃいけないですね」
「そうです、真中から先にお書きなさい」
「先生、おたあ[#「おたあ」に傍点]は字を書くふりをして、人形の頭を書いています」
「うそだい、うそだい」
「うそなもんか、これ見ろ、墨がこの通り坊主頭になってらあ。先生、おたあ[#「おたあ」に傍点]は字を書くふりをして、こんな坊主頭を書きました」
「いけません……それから周造さん、お前さんも、人のいいつけ口をするものじゃありませんよ」
「先生、おたあ[#「おたあ」に傍点]がおいらを睨《にら》みました、帰りに覚えてろといって、拳固《げんこ》をこしらえて見せました」
「静かになさい。多造さん、人をおどかしてはいけませんよ。それから周造さんも、おたあ[#「おたあ」に傍点]といわずに、ちゃんと多造さんとおいいなさい」
「先生、硯《すずり》の水がなくなりました」
「それではみなさん、お手習はこれでおしまいにします、硯と草紙を、ちゃんと正しく、筆を前に置いて、こちらをお向きなさい」
程経てお松がこういうと、子供たちが静まり返る。お松は自分も座について、
「手をよごしませんでしたか、さあこう
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